2009年5月8日金曜日

8-3.コラボレイション/アイデアを出し合って、自分の殻を打ち破る


アイデアを出し合って、自分の殻を打ち破る

 僕はかつて美術館や博物館といった建物の設計を得意としていた事務所に勤めていたので、時々、そんな物件が舞い込んで来た。そうした建物の多くは公共建築物であり、地方自治体に設計の指名願いを出していなければ正式に入って来るような仕事では勿論無い。そうした建物の中の展示計画をしたり、あるいは文化財専門のコンサルタントをしている会社が、自分達の仕事をしている中で建物自体の設計監理も受注してしまうことがあるのだ。

 こうした会社では建築設計の仕事など全くしていなくても社員に一級建築士の資格を持つ者がいれば一級建築士事務所登録をしている場合が多く、元請けとなって設計自体は総て外注に出してしまうのである。美術館や博物館の設計にはやはりそれなりのノウハウがあり、そうした物件の実績のある設計事務所は大抵、大手か名の知れた建築家の事務所ということになるが、そういう所に頼むと高い設計料を払わなければならない。そこで、一応、そんな実績のある事務所から独立して細々とやっている僕の様なところに話しが舞い込んで来るのである。多くは地方の埋蔵文化財の発掘現場に建てる小さな博物館施設である。

 下請け仕事はできるだけ避けて通りたいと思うのは誰しも同じだが、何の宛もコネもなく独立した身にとって、こんな設計者冥利に尽きる仕事ができる機会はそうあるものではない。それに、元請けの会社自体は全く建築には不慣れなので、デザインを含め、基本設計から実施設計まで、あるいは現場監理までお任せ状態になるのだから、多少,設計料が安くてもこれは断れない。

 そんな話しで最初に実現したのは、群馬県の山の中に造った全国の郷土玩具を集めた小さな博物館だった。幾何学的なプランの中に展示室を納め、外周廻りは鉄筋コンクリートの壁を一層建ち上げ、ふたつの芯となる部分に設けた矢倉からプランに添って幾何学的な木造の屋根を掛けている。背景の山並みに合わせた屋根の形状は、独特の雰囲気を放ちながら緑の中に溶け込んでいた。五百平米くらいの小さな博物館だが、住宅から比べれば遥かに大きい。それでも自分一人で図面を描き切る事のできるスケールであり、その空間はイメージと現実とのズレは全くない。西欧的な重厚な壁の上に無垢の木をふんだんに使った日本的な小屋組が乗った美しい空間に仕上がった。設計者として自らの名を冠した建物にはならないが、例えそうであっても、こういう魅力的な仕事はそうあるものではない。

 文化施設の展示計画も行なう大手事務機メーカーからも、そうした地方の小さな博物館施設の計画案やコンペ案の作成を頼まれたこともある。この手の仕事は、実現しないことも多いのだが、企業からの依頼による仕事は計画案を作るだけでも設計料をきちんと支払って貰う事ができたので、安心して取り組める仕事ではあった。しかし、こうした仕事の多くは決して大きくはない会社からの依頼であり、魅力的な仕事ではあっても、金銭面では相当キツい条件を飲まされる場合も珍しくはなかった。

 K君の断熱コンサルタントをしている時に、ある文化財コンサルタントをしている小さな会社から、立て続けに3つの案件を頼まれていた。ひとつは房総半島にある縄文期の墳墓跡、2つ目は長野の縄文土器、3つ目は四国にある平安期の瓦窯跡、それぞれの史跡に造られるガイダンス施設である。

 最初に始まった房総半島の物件については、初年度は基本設計までだったので、自分一人でも充分こなせる仕事ではあったが、僕はあえてK君に「手伝ってもらえないか?」と声を掛けた。設計という仕事は、ただ一人の創造性によって生み出すことのできるものではあるが、何か新たな表現性を求めようとする時には、ちっぽけな一人の頭では限界がある。自分の発想と、自分には無い発想をぶつけ合うことで、より高い次元の表現性を追求できるのではないか、そんな想いを感じていた時に、K君は絶好のパートナーとなってくれるような気がしたのである。

 彼は快くこの申し出を受けてくれた。僕らは房総半島の内陸部の人里離れた山中に墳墓跡を訪ね、その施設が建てられる敷地を探索し、まず、基本設計の初期段階として、それぞれラフスケッチを起こす作業に取りかかった。こうした施設の機能は比較的単純で、エントランス、受付、事務室、展示室、セミナー室、それに閉館時でも使用できるトイレ、それらを有機的に構成することである。敷地も広く、特に意気込まなくても、誰でもプランくらい簡単に作れそうなものだが、逆に言えば、如何にして魅力的な施設にするか、と考え始めると、これだ、というものに辿り着くまで膨大な量のスケッチを書かなくてはならない。そうした作業をひとりでやっていると、どんどん自分の世界の中に埋没してゆくことになり、視野がどんどん狭くなって行ってしまう。そうなってしまうともうアイデアに広がりがなくなり新鮮な表現性が損なわれてしまう。そんな時には、それを客観的に見る眼が必要であり、ちょっとした他者のサゼッションが、問題解決の糸口になったりするのである。

 僕らはお互いにラフスケッチを見せ合い、お互いに批評し合い、何度もそれを繰り返しながら少しずつひとつの方向性を見出してゆく。

 考えてみれば、僕とK君は一世代違う年齢である。普通なら僕がリーダーシップを取って彼が僕の方針に従って作業を進めてゆく、という関係になるのが普通かもしれない。しかし、そうした上下関係があっては彼のアイデアを十二分に引き出すことはできない。対等に意見を出し合う、という関係を保ってこそコラボレイションの意味があるのだ。

 僕らは、受注者の求めに応じて基本計画書にまとめる計画案を3案作ったが、自分達が薦める案は一案だけだった。二股に分かれた枝のようなプランで、僕らは二人とも、自分一人では決してこんなプランは作り得なかっただろう、と思える自信作だった。二人にとっては素晴らしい案を造り上げることができたコラボレイションだったのである。しかし、こんなプラン、こんな建物を誰も見たことはないだろうから、この案を採用することに誰もが二の足を踏んでしまう可能性はあった。事実、受注者自身もこの案はちょっと過激すぎる、という印象を持った様だった。

 こうした文化財に関する事業は文化庁から補助金を貰って地方自治体(この場合は町だが)が行なうもので、基本設計を終えた時点で、町の委員会の承認を得なければならない。受注者と共に建築の設計担当として僕は委員会に出席を許され、これら3案についての説明を行なったが、委員会では今後どの案で進めるか決めようという話しになり、一案は全員の合意のもと選から外れることになったが、態勢としては僕らの自信作ではない四角い大人しい案の方を薦める声が圧倒的に多かった。しかし、これではとても無理かな、と覚悟を決めていた時だった。メンバーの中では一番若く、ただひとり、文化庁から出向いていた委員が、僕らの自信作を高く評価し、

「今、急いで一案に絞る必要は無いのではないか?」と、その場での決着を留保する様、進言してくれたのである。

 こうした事業は、計画の立案から竣工、オープンまで以外と長い年月がかかってしまう。今年は基本設計、来年は実施設計、次の年は躯体工事まで、その次の年は内装・外装を仕上げ、そのまた次の年は展示工事をやって、やっとオープンに漕ぎ着ける、という具合に、町の毎年の予算取りに合わせて少しずつできてゆくのである。

 僕らは少なくとも5年先の新鮮な建物をデザインしなければならないのである。文化庁の若い委員はその辺の勘所を良くわきまえていたのかもしれない。

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