2009年4月30日木曜日

6-3.開放的な高断熱・高気密住宅/ハウスメーカーのセミナー

ハウスメーカーのセミナー

 今はもう解散してしまったが、僕の本が出た頃に、首都圏エリアで他社に先駆けて「外断熱」を全面に打ち出して営業を始めていたハウスメーカーがあった。僕も同じく外張り断熱を本の中で推奨していた設計者だったので、何らかの繋がりができるのはごく自然な事だったのかも知れない。何度か首都圏各地で開催された「外断熱セミナー」で講師を務めさせてもらったが、そうした中ではじめてあの住宅技術評論家のM先生を紹介してもらう事ができた。M先生は勿論、外張り断熱を推奨していた人だったから、このセミナーには何度も呼ばれていたのだ。その時は、名刺を交換し、挨拶程度のお話をさせて頂いただけだったが、その後、先生が主催している集まりに毎年、招待して頂くようになった。

 ハウスメーカーの主催するセミナーに招待される客は皆、営業マン達がそれぞれ担当している見込み客である。そんなセミナーで講師を務めると、ちょっと厄介な問題が発生したりする。僕に設計を頼みたい、というお客さんが出て来るのだ。こちらとしては嬉しい話しだが、その客は元々、そのハウスメーカーの客である。そこからセミナーの講師を頼まれていれば、その客を自分の客にしてしまうことはできない。

 しかし、一番困るのが、こうしたセミナーとは関係なく僕のところにやって来て、そのハウスメーカーとどちらが良いか、と値踏みをするお客さんがいることである。これが他の設計事務所との話しなら、どちらがその客を掴もうが腕次第だから問題はない。しかし、相手がハウスメーカーとなると、これは非常に厄介なのである。ハウスメーカーがその事を知ると、途端に僕はそのハウスメーカーにとって競合する敵とみなされてしまうのだから、凄い圧力が掛かって来るのだ。それまで、セミナーでは先生、先生ともてはやされていたのが、「もし、そのお客さんを取ったら、もう二度と講師はお願いできない」と、脅しをかけて来る。だからそんなお客さんが来たら、丁重にお断りをするしかない。

 ハウスメーカーの営業マンというのは、最も高額な商品を売っているセールスマンである。だから、年間に数えるばかりの件数をやっと契約できるに過ぎない。何ヶ月も顧客を獲得できないこともざらにあるのだから、そんな時の営業マンは必死である。

 営業マンの殆どは建築を専門に学んだ事のない人達である。下手な知識があっては真剣に自分達の商品を客に勧められない、という裏事情もあるだろうが、何も知らなければそれだけ客の目線に近いということは確かだ。お客さんが最終的にその家を買おうと思うのは、一番相性の合う営業マンに出会った時だ、と言われるのも、悔しいかな、事実なのだから仕方がない。

 さて、このハウスメーカーはご自慢の外断熱にダウ加工のSHS工法を採用していたが、細部に至までよく考えられた工法になっていた。これなら内部結露の問題は極めて少ないと言えるだろう。このメーカーもそれまではグラスウールによる充填断熱を行っていた。充填断熱の場合、外壁に耐力面材として構造用合板を使うと、湿気が抜け難く内部結露の問題を抱えてしまうので、部屋内側での防湿措置が重要となって来る。

 住宅で用いられるグラスウールやロックウールといった繊維系の断熱材は、部屋内側は防湿シート、外壁側は透湿シートとなった袋に入れられ、それを柱、間柱間に挿入する様になっている。防湿シートは四周に耳が付いていて、それを柱、間柱の上に重ねて留め、その上に内装下地のプラスターボードを張る事で防湿・気密を図ろうというものである。これがきっちり施工できれば理論上、内部結露の心配は少ないと言える。しかし、やはりそれを完璧に施工する事は難しい。ハウスメーカーにとって一番困るのは、現場によって施工の出来、不出来が発生してしまう事である。だから、どんな下請け工務店にでも失敗のない仕様としなければならない。

 防湿シートの確実な施工に難があるとすると、耐力面材として効かせている構造用合板を何とかしなくてはならない。湿気が上手く抜けて、尚かつ耐力面材となるものでなければならないから、ハウスメーカーはそれを独自に開発して、わざわざ耐力面材としての認定を取っているものも多い。このメーカーでもそうした苦慮を重ねてきたが、結露防止の目的は達成しても気密性が低いから、厚い断熱材を入れても換気損失が大きく、暖かい家にはなかなかならなかった。外断熱の採用は、そうした問題を一気に解決するためのものだったのである。外断熱にすれば、構造用合板等の透湿性の低い耐力面材はそのまま防湿気密シート代わりにもなるし、その上に張られる断熱材は、直接、外壁通気層に面していることになるので、結露に対する安全性は格段に高まる。

 しかし、その外断熱に用いられる断熱材は発泡プラスチック系の断熱材だから価格が高く、ハウスメーカー同志の価格競争においては極めて不利な条件を備えてしまう事になる。ここに大きなジレンマがある訳だが、このメーカーは「外断熱」に一ランク上の住宅というイメージを持たせようという戦略を持っていた様に思う。僕が自分の本である工務店の事例を紹介し、このメーカーの新しいモデルハウスの企画にも提案した「木造レンガ積みの外断熱住宅」を本当に造ってしまったのも、そうした高級指向のイメージ戦略にすっぽりハマったからかも知れない。

 しかし、このハウスメーカーは、ある日突然解散してしまった。親会社の上場を期に、不採算部門を整理する一貫の措置だった。確かにハウスメーカーとしては他社より高い商品であったから、その販売は容易ではなかった様だが、一定のファン層ができるほど性能の良い住宅を提供していたと思う。しかし、このハウスメーカー自体、親会社の存在に甘えていたという事実もあるのだ。こうして、以外と旨味のあったセミナー講師の仕事も消えてしまう事になった。

2009年4月29日水曜日

6-2.開放的な高断熱・高気密住宅/高断熱・高気密セミナー


高断熱・高気密セミナー

 本が出版されると、一週間も経たないうちに読者からのメールが入り始めた。

「高断熱・高気密住宅を建てたいと考えているのですが、どの工法が一番いいのか教えて下さい。」

「どの断熱材が一番いいのですか?」
 
「高断熱・高気密住宅をちゃんと造れる工務店を教えて下さい」

「本の一番最後の項で紹介されている木造レンガ積みの住宅はどこの工務店がやっているのですか?」

 一番いい工法があるなら、世の中に百を超える様な断熱工法など必要ないし、断熱材だって皆、必ずメリットがあればデメリットもある。それに、設計事務所は工務店紹介所ではない。

 毎日、入る様になった読者からのメールは、ひたすらただで情報を得ようとする人達からの質問だった。最初は、丁寧に文章を推敲し返事を返していたが、そんなことが一月以上も続くと流石に僕も無料相談所なんかやってられない、という気持ちになって来る。一度の返事で終わる人ならまだいいのだが、返事を返すと何度も何度も新たな質問を出して来る断熱マニアがいて、「いい加減にして下さい」と返した事もある。本を出すと、こんなことになるのだ、と僕ははじめて自分の期待が浅はかだったことに気付かされた。

 しかし、一般消費者の気持ちというのも、これで何となく分かったような気もする。確かに、高断熱・高気密に対するニーズは増えて来ているのだということ。そして、そういう人達は設計事務所のデザイン性よりも住宅の性能に目が行っているので「設計」よりも「施工」に対する価値観が強いということ。良い断熱材とかいい断熱工法を使えば、それだけでいい家が建つと思ってしまっている。

 僕は、良いデザインがなければどんな工法も活きて来ないことを語っている積もりだったのだが、なかなかそんな真意を読み取ってくれる読者はいないものである。それに、確かに高断熱・高気密住宅というだけで消費者にとってはワンランク上の住宅を求めるということなのだから、それをさらに設計事務所に頼むというということは、まだまだ相当ハードルの高い話しだったのかも知れない。

 しかし、勿論、そんな困った事ばかりではない。本を通じて色々な人との出会いが生まれたことも確かである。ある日、一本の電話が入り、それは以前、あるお宅で外張り断熱を採用した時に、工務店からその断熱施工を請け負っていた会社の社長からだった。

「本を読ませて頂いたので、一度お邪魔してお話をさせて頂きたい」と言う。

そして、数日後、現場でよく顔を覚えていたまだ歳若い社長は、同年輩くらいの断熱材メーカーの担当者を連れ立ってやって来た。僕が本を読んでくれた礼を言うと、
「M先生が、皆にこの本を読む様に、って薦めてくれたんですよ」と言う。

 それを聞いて,僕は驚いた。住宅技術評論家であるM氏の書いた建築雑誌の記事はよく読んで参考にさせてもらっていたし、その他、彼の断熱に関する記事は、よく目にしていた。他にも住宅評論家と呼ばれる人は多いが、大抵は何処から金をもらっているのかバレバレではないか、という技術を知らない評論家達の中で、最も断熱技術を知る人であり客観性に富んだ文章が書ける人だった。外張り断熱工法の開発に関わっていた人だから、そのメーカーの断熱材を使っている工務店仲間に、社員教育用として僕の本を推薦してくれたと言うのである。それで、自ら本を手にしてみると、あの時の設計事務所の人だ、と思い、早速挨拶に来たのだと言う。
 僕は、その話しに驚きながらも、M先生の懐の大きさに感服する思いだった。普通なら、本の批判をされて当然のところなのに、それを皆に薦めてくれるなんて、頭の下がる思いだった。

 本を出してもなかなかそれが自分の本来の生業である設計の仕事に結びつかなかったが、考えてもいなかった講演の依頼が入って来た。一番最初に講演会の話しを持ちかけて来たのは、房総半島の茂原市にあった玉川建設という会社である。今は、エコホームという名前で千葉市に本拠地を移しているが、独自に開発した「地熱住宅」を千葉県内に展開していたハウスメーカーと言っていいくらいの大きな工務店だった。地熱住宅とは、地中の温度が夏冬問わず一年を通して一定の温度に保たれていることに着目して、その熱を壁体内に循環させる事で良好な室内気候を作り出そうというもので、北海道のアイヌの伝統的な民家「チセ」の研究者であった宇佐見女史を招いて研究開発したものだった。

 「チセ」は、言ってみれば縄文時代の竪穴式住居みたいなものなのだが、あの極寒の地にあってあんな簡素な住居でアイヌの人達がどのように寒さを凌いでいたのか、というのは同じ北海道人として確かに興味深い話しだった。簡単に言ってしまえば、アイヌの人達は夏でもチセの中で種火を絶やさず火を焚いていたのである。夏の間中、地中に蓄えられてきた熱が冬の寒さからアイヌの人達の命を守っていたという。冬場には激しく火を燃やすのだろうと普通なら思うが、そうすると激しい対流が起こりどんどん冷たい外気がチセの中に入って来てしまうから、決してそんなことはせずひたすら同じ様な調子で火を焚き続けるのだそうだ。そんな研究がこの地熱住宅のベースになっていた。僕は高断熱・高気密に関する膨大な資料を集めていたが、自然エネルギーとしての地熱利用については、この時、はじめて知った事だった。

 このように、地熱住宅は通年を通して安定した地熱を利用して壁体内に空気を循環させる方法を取っているので、同じ壁体内に断熱材を入れる事はできないから、必然的に外張り断熱となる。今の住宅に上手く地熱を活かすには、やはり断熱をしっかりして熱損失の少ない家にしなければならない。当時まだ外張り断熱というものがあまり知られていなかったにも関わらず、玉川建設はその時点ですでに十年以上の歴史を持っていたのである。

 僕が講演の依頼を受けたのは、「地熱」ということ以前に、まだまだ高断熱・高気密について世の中の認知度が低く、ぜひその辺りのところをお客さんに語って欲しいという理由からだった。始めての事だから周到に準備をした積もりだったが、自分自身が人前でどんな風に喋るのか、自分でも想像がつかなかった。

 最初の講演会では事前に用意したレジュメをお客さんに配布し、それを元に話しを進めていったが、次回からはパソコンで作っておいた資料をプロジェクターで映し出してレーザーポインターを当てて説明をしてゆく、というように段々と様になってくると同時に、客の表情、反応が冷静に見られる様にもなって来ていた。
 基本的には固い話しなので、客が退屈しない様に時々笑える様な話しも織り交ぜなければならない。それでも一方的に話しをしていてはやはり客の集中力は落ちてゆくから、そんな時はお客さんに質問を投げ掛けたりして参加型のシナリオも組まなくてはならない。

 そして、講演の最後には質問の時間が取られ、お客さんの質問を受ける、というのが定番である。そして、良くあるのが
「色々お話を伺いましたが、やっぱり私は昔の様な開放的な家の方が日本の気候には合っているのではないかと思うのですが」
というお客さんの声である。

 2時間近くも説明して来て最後にこのような感想を聞くと、疲れがどっと出て来てしまうのだが、それはやはり僕のスピーチ力がまだまだ未熟である、という証拠でもあった。

「勿論、昔の様な開放的な家で、冬も外気と変わらない気温の中で生活されるなら、結露の心配もありませんし、家も長持ちするでしょう。それなら、おっしゃる通り高断熱・高気密なんて必要ありません。でも、もし、冬はやはり暖房して暖かい生活をしたいとおっしゃるなら、やはり結露のない家づくりをしなければなりません。そのために必要なのが高断熱・高気密なのです。」

 僕はいつもそう応える様にしているのだが、お客さんの日本の家=開放的、というイメージはなかなか拭い取る事はできないものである。

2009年4月28日火曜日

6-1.開放的な高断熱・高気密住宅/本の出版



本の出版

 当時、ハウスメーカーなどでは、高断熱・高気密商品が盛んに売り始められていたが、高価な発泡プラスチック系の断熱材を使った「外張り断熱」住宅は、価格的にどうしても高くなってしまうのでハウスメーカーとしても二の足を踏んでいる、という状態だった。僕自身も、他の設計事務所との差別化を図ろうと、「高断熱・高気密」を売りに活動していたが、それが成功したかと言えば、全く当てが外れた、というのが正直なところである。小さな設計事務所が大々的に宣伝活動を行う資金力がある訳ではないし、首都圏に住む一般の人の中にも「高断熱・高気密」という言葉はある程度、認知されて来ていたとは思うが、それがいったいどんな住宅なのか、そんな家に住んだ事のない人達にとっては「高断熱・高気密」の意味も良く理解されていない、という状況だった。

 高断熱・高気密住宅は、ビニールシートですっぽりと包まれたペットボトルのような家と言われ、「日本の気候にそぐわない、自然の摂理に反した家づくりだ」と揶揄する反・高断熱高気密派との間で、激しく論戦が繰り広げられていたのも丁度、この頃である。高断熱・高気密派は理論を武器に相手を説得しようと試みるが、反・高断熱高気密派はイメージ戦略で返して来る。一般消費者はイメージに弱いから、どうしてもそちらの方に引張られてしまう。そして、そんなイメージ戦略を牽引していたのが論理や技術に長けていた筈の設計事務所だったのである。

 例えば、こうだ。

「日本の家は高気密化が進んでしまったために、結露やカビ・ダニの発生という不健康を生み出してしまったのだ。」

 だから、高気密はいけないと言う。これを聞くと皆は成る程そうだ、と思ってしまう。そして、この言葉だけを取り上げれば、決して間違ってはいない。しかし、これは全くナンセンスな話しだ。「高気密化した」ことと、高断熱・高気密の「高気密」は全く意味が違う。高気密化してしまったのは、今までの伝統的な家づくりの意味を忘れて透湿性のない新建材や合板で固められてしまったからであり、高断熱・高気密における高気密には次の3つの意味がある。

1) 室内で発生した水蒸気が外壁内に侵入して結露を起こすのを防ぐ。
2) 家全体の隙間をできるだけ少なくする事で換気損失を減らす。
3) 計画換気を可能にする。

 北海道では、高断熱を施すと内外の温度差が大きいので、室内で発生した水蒸気が壁内に侵入し激しい結露を起こしてしまう。だから高断熱には高気密が欠かせなかった。それがそのまま高断熱・高気密と呼ばれる様になったのである。「高気密化」という言葉を、高断熱・高気密に絡めてイメージさせる上手いやり方ではあるが、そこには大きな誤解がある。

 巷には結構、高断熱・高気密絡みの本が出ていたが、それらはおよそ強引に自分達の工法の良さを吹聴するための宣伝本ばかりだった。「外張り断熱」は元々、本州由来の工法で、壁体内に空気を循環させることで内部結露を防止し、自然の力で家の中を暖めたり涼しくしようというアイデアを活かす為に軸組内に断熱材を挿入する事ができないので外張りとなった、という歴史があり、そもそも高断熱・高気密を意識したものではなかったが、それでも高断熱・高気密のひとつの方法として外張り断熱をというものがちょっと脚光を浴びる様になって来ると、今度は従来の繊維系断熱材メーカーと新興の発泡プラスチック系断熱材メーカーとの間で、「充填断熱」対「外張り断熱」という構図が生まれ、消費者そっちのけで断熱材メーカーの内輪もめのような状況が続いていた。

 僕は、高断熱・高気密住宅に特化した設計事務所にしようと考えた時から、巷ある様々な断熱工法について資料をかき集め、こつこつと調べてはそれらを理解する為に自分なりにレポートをまとめていた。そもそも、気密シートを貼る充填断熱が巧くいかなかったことに起因しての事だったが、現場の職人さん達に高断熱・高気密を理解してもらうための資料づくりが必要だと考えてのことだった。

 確かに本州の人は暑さ寒さに強い。首都圏ではどんなに寒いと言ったって死ぬほどのことではない。だから、伝統的な夏を旨とした家づくりが向いているのだ、ということも分かる。しかし、僕は首都圏で生活を始めてひとつ気付いた事がある。北海道の冬はからっと晴れて太陽を拝める事が少ない。雪が降っていなくてもいつもどんよりと厚い雲のかかった重苦しい天気の日が多かった。ところが、こちらは結構冬場は雨も少なくからっと晴れている事が多いのである。だからこそOMソーラーという巧いアイデアが生まれたのだと思うが、高断熱・高気密的発想からすると、熱損失の少ない家にして、大きな窓から日差しを入れればそれだけで日中は暖房など必要がないくらい暖かい家になるのだ。太陽の沈んだ夜には、その大きな窓は逆に熱損失の大きな部分となるから、内戸などを閉めて熱損失を防ぐ様にしてやればいい。そして小さな暖房機ひとつで家中を暖める事ができるのだ。

 僕の元にはいつの間にか丁度本一冊分にはなる原稿が溜まっていた。どこのメーカーから頼まれたものでもない、できるだけ客観的に様々な断熱材や百を超える工法、その他、高断熱・高気密にした時の暖房の方法について、そして、温暖地における高断熱・高気密住宅についての自分なりの所見をまとめたものである。そんな本は今までありそうでなかったから、実用書を出しているような出版社に持ち込めば、上手く乗って来るかも知れない。そんな期待を込めて、空いた時間を見つけては手当たり次第、出版社に問い合わせのメールを出した。しかし、それはやはり甘い期待でしかなかった。

 半年もの間、出版社にメールを投げ続けたが、原稿自体読んでもらう事ができない。そして、とうとう原稿を読んでもらえるところを見つけ、読んでもらったが、やはり快い返事をもらうことはできなかった。後は自費出版を考えるしかないか、とも思ったが、営業経費とは言え、その頃の事務所にはそんな冒険ができる資金はなかった。そんな風に諦めかけていた時だった。もう随分前に打診して、なしのつぶてだったある出版社から一本の電話が入り、それがきっかけで僕の原稿は「究極の100年住宅のつくり方」という本になって全国販売された。

 元々は、「開放的な高断熱・高気密住宅をつくる」というタイトルだったが、そんなことはどうでもいい。自分の原稿が本になって、人に読んでもらい、少しでも高断熱・高気密住宅というものを知ってもらえるならそれで良かった。勿論、本が売れて印税が入るならそんな嬉しい話しはない。しかし、この手の本がベストセラーになるような期待はサラサラなかったが、本を読んで僕に住宅の設計を依頼して来る人が何人かでも現れる事を願っていたことは確かだ。

2009年4月27日月曜日

5-4.外張り断熱の家/建築を見て、建築主を見ない

建築を見て、建築主を見ない

 設計事務所の仕事というのは、上手く行って当たり前、ほんのちょっとした事でも施主が不満に思うところがあれば、それだけで総てを否定されてしまうところがある。設計を進めてゆく中で、一緒に家づくりを楽しみ、一緒に完成を喜び合える事を願って一生懸命頑張っても、現実には何かしら予想もしなかった問題が起こったりすることもある。殆どは解決することができるのだが、そうはいかない事もある。こうした問題の原因の大半は施主と設計者とのコミュニケーション不足にある。特に、住宅においてはそれが総てだと言っても過言ではない。

 大きな建物の場合は、その建設資金は税金であったり会社のお金であったりするから、身銭を切る訳ではない施主の担当者は、設計者に対してそれほど厳しい目を向ける事は少ない。しかし、住宅はそれを建てる施主にとっては人生の中で最も大きな買い物となる訳である。だから当然、設計者に向ける要求は最も厳しいものとなる。

 建て売りなら、出来上がったものを施主が見て判断する事だから設計者は直接,施主に向き合う場面はない。しかし、設計事務所が住宅を設計するという時には、誰ひとりとして同じ人間がいないのと同じ様に、家族は皆違うのであり、常に特殊解を求められているということでもある。だから、その施主にとって最も相応しい解を見出す事が、設計事務所の存在価値だと言ってもいいだろう。そうした中で、常に合格点をとらなければならないとしたら、それに応えるのは至難の業だ。

 建築というのは実に煩雑な仕事である。小さな住宅一軒でも様々な職種の人の手が入っている。だから問題が発生する箇所は多岐に渡っている。設計者自身が図面を間違えるかも知れない。工務店が見積もりを間違えるかも知れない。大工さんが納まりを間違えるかも知れない。左官屋さんが指定したタイルを間違って発注してしまうかも知れない。電気屋さんが配線を間違えるかも知れない。現場でのことは、工務店の優秀な現場監督が付いてくれていれば、おおよそ上手く行くだろう。でも、最終的に何か問題が残されたまま竣工してしまうと、設計者の監理責任を問われることにもなる。

 だから僕は常々、どんな些細なことでも施主に報告することにしている。自分の評価が下がる様なマイナス情報も、である。設計において自分が間違いを犯していた時には、施主に謝って現場で変更させてもらうこともある。情報開示は施主と設計者の信頼関係にとって欠かせないものなのだ。現場で大工さんが間違って施工してしまったところは、きちんとやり直してもらうが、そうしたことも施主にはちゃんと報告をさせてもらっている。そうすることによって、施主もつぶさに現場の状況を把握できるし、最終的に大きな問題が発生して施主を狼狽させるようなことを未然に防ぐことができるのである。

 建築の設計という仕事に就いて、僕は暫くの間、施主の存在を知らずに建築だけを見て、考え、過ごして来てしまった。その事は先に書かせてもらった僕自身の経歴を見れば明らかである。独立して住宅の設計を始める様になって、やっと施主という存在に気付き始めたと言ってもいいだろう。その中で、色々な失敗を経験することになるのだが、その失敗は常に、施主とのコミュニケーション不足が原因なのだ。

 よく、医者は病気を診て病人を診ない、と批判されるが、僕らも同じなのだ。設計者は建築を見て、建築主を見ていない。僕もまさにそんな設計者であったのだ。未だに一枚の設計図面を見ながら、一緒に見ている施主の頭の中にも当然自分と同じ空間が描かれていると錯覚してしまうことがあるが、自分がいつも相手の立場になって考えてみる、ということは、分かっていてもなかなかできないものである。でも、そうしなければ相手の気持ちを汲み取ることができないのだ、ということに気付く事ができただけで、随分、施主を不安な気持ちにさせずに済むことができるようになるものである。

2009年4月26日日曜日

5-3.外張り断熱の家/寒い家


寒い家

 毎年、年の瀬に作る年賀状はその年に竣工した建物をコラージュしたものだ。だからそんな一枚の年賀状が営業ツールになることもある。かつて世話になった人への年賀状だったか、実家に来ていた息子夫婦がそれを見て、自宅の設計を依頼して来たのである。親が十年も前に息子の為に用意していた土地があったから、家にかけられるお金はある程度余裕があったと言えるだろう。

 敷地は北側が運河に面した住宅街の一角で、南側のリビングでは、近接する隣家の裏窓を望む事しかできない。それで僕は思い切って北側リビングの家を提案した。大きな吹き抜けのあるリビングに大きな開口部を取り、運河沿いに咲く桜を一望できる家にしようと考えた。一般に、南に向いた窓から景色を眺めると逆光になるから、景色を眺めるには北側の窓が向いているのだ。南の光はトップライトから入れる。窓はその目的に応じて分けて考えて良いのだ。

 お風呂からも桜が見たい,と言うので、リビングの吹き抜けの中を貫通して外に飛び出した浴室を二階に造った。主寝室や子供部屋は二階のバルコニーに面して南側に配置する事ができるので、環境としては申し分がない。

 床は三十ミリもある無垢の板をフローリングとして張り、壁は二色の漆喰を塗り重ね、独特の雰囲気を出した。外壁も高価な砂岩調の塗り壁としている。
 北側にリビング・ダイニングを配置し、大きな窓を取っているので、外張り断熱を施しても寒さには注意しなくてはならないが、FF式の暖房機一台をダイニングに置き、断熱サッシを使っても壁面の1/5程度しか断熱性能はないからリビングの大開口はヒートロスが大きい。そこには暖房機の余熱を利用したパネルヒーターを窓下に置くことでコールドドラフト(冷気の下降)を防ぐようにした。夏場はトップライトのブラインドを閉め切ることになるが、冬場は少しでも温かな日差しをリビングに入れる事ができる。

 初めての土地だったので、工務店を探すのに苦労したが、地元のいい工務店を見つける事ができた。設計事務所の仕事もよくやっているとのことで、施主と共に実際に建てている住宅を見学させてもらうこともできた。
 外張り断熱についてはまだ経験のない工務店ではあったが、進取の気性のある社長で、ぜひやってみたい、ということだったので、外張り断熱なら初めてでも問題はないだろうと判断し、その工務店に工事をお願いする事となった。

 若い担当者が付き、ちょっと歳の行った二人の大工さんが工事を進めていったが、この現場が始まってからは、しきりに大工さんから直接、事務所に電話が入る事になった。週一回のペースで現場に行ってその都度、図面の細かな部分について打ち合わせをしていたが、毎日の様に大工さんから納め方の確認やら、分からない所の説明を求めて電話がかかって来たのである。しかし、これは決して煩わしいことではなかった。設計事務所の仕事をした事のない大工さんなら、勝手に自分で判断して設計図と違うことをやってしまい、何度も手直しをしなくてはならなくなるのだ。それに比べたら、設計図の意図をちゃんと理解して造ってゆこう、という気持ちが伝わって来るし、リアルタイムで現場の状況が把握できるのだから、こんなありがたい話しはないのである。

 サッシを取り付け、外張り断熱の施工が済むと、その時点で気密測定を行う。現場を見れば必要な気密性能がでているか殆ど判断できるので、今はあまりやらなくなったが、気密測定を行うと、施工不良箇所がすぐに分かるのである。気密測定とは、家中を閉め切った状態で家の中の空気を抜いてゆく、という作業をする。家に隙間がなければ、どんどん気圧が下がってゆくので、それでどの位の隙間相当面積になっているか、という数値を割り出すのである。気圧が下がらない様であれば、どこかに大きな穴が空いているということであり、そうした問題箇所は近寄るとヒューヒューと音を立てているのですぐに分かるのである。そうした箇所を探しては塞ぎ、何とか所定の数値になればオーケイということになる。

 こうして、現場は順調に進み、何とか予定通り引き渡す事ができた。しかし、僕は後に大変なクレームを受ける事になったのである。
 それは、完成して初めての正月のことだった。その施主から届いた年賀状に、
「寒くて、こんな家には住めません!」
と書いてあったのだ。

 僕は早速、電話をして状況を確認すると、
「北海道の様に、冬でもTシャツ一枚で過ごせると思っていたのに、寒くて仕方がない」と言う。流石にそこまで暖かい家を考えていなかったので、その辺の確認が甘かったと反省したが、原因はいくつかあった。まず、冬場は運河沿いに冷たい風が流れ、それを大きな北面の窓にまともに受けてしまう、ということがある。ダイニングに設置していたFF式暖房機の熱容量もあまり余裕を持たせてはいなかったし、窓下に設置したパネルヒーターではとても対処し切れなかったのだ。後は、換気システムによる熱損失が以外と大きかったのである。

 実際に訪ねてみると、確かに足下は寒い。しかし、それはあの大学の部長宅とあまり大差はなかったのだ。暑さ寒さの感覚は人によって違うものである。どこくらい暖かく、どのくらい涼しく、ということを細かくヒアリングしておかなければ、思わぬクレームとなってしまう。
 対策としては、ストーブをもう一台入れる,という事ぐらいしかなかったのだが、その後,暫く「寒い、寒い」と書かれた年賀状を毎年もらう歯目になってしまった。

2009年4月25日土曜日

5-2.外張り断熱の家/暖かい家


暖かい家

 僕は,兎に角、施主から敷地測量図を貰い、施主の要求条件を聞き、プランをまとめていった。インターネットが漸く普及し始めた頃だったが、コンピューターに精通していた部長だったので、プランの打ち合わせは殆どメールのやり取りで行う事ができた。さらに、昔、一緒に現場を見ていた人なので、自分で簡単なプランを描いてはメールで送って来ていた。不思議なのが、奥さんの意見を一度も聞いた事がなかった、ということである。家が完成して引っ越して来るまで、僕は奥さんの顔を一度も見た事がなかったのである。

 以前、お宅に泊めてもらった時も、確か丁度冬休みだったので、実家に子供を連れて帰っている、ということで会ってはいなかったのである。家づくりというのは、どちらかといえば、殆ど夜寝に帰って来るような亭主よりも、ずっとそこで過ごす時間の長い主婦が主役である。なのに、一度も直接,奥さんの意見を聞かずにできてしまった家だった。

 図面が仕上がると、最終チェックをしてもらうために、久しぶりに部長に会った。一緒に現場を見ていた部長であるから、図面を見るのはお手の物である。しかし、その時僕が持参した図面の束を見た部長は、ちょっと目を丸くしていた様だった。大学の建物の様に大きな建物なら図面の枚数も相当な数になるが、小さな住宅一軒がこれほどの図面になるとは思ってもいなかったのだ。今からすれば、決して充分な図面ではなかったのだが。僕は、ペラペラと図面をめくる部長を見ながら、
「大分予算オーバーになるような気がしますから、色々と落としどころを探さなければならないでしょう」
と告げると、
「いや、直さなくていい。このまま行こう」
と言って、目を細めた。何か部長なりの目論みがある様だった。
 早速、部長が指定したその工務店に見積もりをしてもらうと、案の上、大幅に予算をオーバーしていた。それを部長にそのまま提出すると、部長は、
「わかった」
と一言言って、その見積書を受け取った。

 後で部長の部下であった人にこっそり聞いた話しだが、これまで大学で使っていた業者を総動員して、家に使う材料を安く仕入れさせていたらしい。
 部長の職権乱用によって、何とか着工に漕ぎ着ける事ができたが、僕にとっては初めての工務店である。しっかり現場を見なくてはいけない。高尾山の麓まで通うのは難儀だったが、幸い大学の仕事と合わせて見る事ができたので、さほど苦にはならなかった。

 毎回,指摘しなければならない箇所があったから、お世辞にも腕がいい大工さんとは言えなかったが、それでも誠実な人柄の工務店の主は、部長の信頼を損ねることなく、無事、現場を納めてくれた。腕のいい大工さんを持つ優秀な工務店だと分かっていれば、難しい納まりの凝ったデザインをしてもいい。しかし、相手の力量が分からなければ、あまり凝ったデザインをしない様に心掛けなければならない。住宅の現場はそこまで考えなければ上手く行かない。そんなことが少し分かり始めていた頃だった。

 冬に入る前に竣工し、正月に新居に招かれた僕は、初めての外断熱住宅がいったいどんなものなのか気になっていた。FF式の石油ストーブ一台をダイニングの隅において、それで家中を暖める計画だった。当時はまだ機械換気が義務付けられてはいなかったが、大きな吹き抜けのあるリビング・ダイニングに石油ストーブ一台では、どうしても熱が上に上がってしまい,足下が寒いだろうと思い、床にガラリを切って室内の暖められた空気を床下に通して基礎の立ち上がり部分に付けた換気扇から排気することで床下を少しでも暖めようと考えていた。しかし、実際に訪れて足を踏み入れてみると、その目論みはあまり有効ではなかったことが分かった。FF式のストーブは、タイマーセットができるので、朝起きる前に点火する様にセットしておけば、寒い思いはしなくていいだろうと思っていたが、その日初めて会う事ができた奥さんは、
「タイマーをセットなんかしていませんよ。だって、朝起きても全然寒くないんですもの」
と言って、暖かい家にご満悦の様子だった。

 僕は足下がちょっと寒いんじゃないか、と感じていたが、それは北海道人の感覚だったのかも知れない。東京の人は暑さ寒さに強いのだ。

2009年4月24日金曜日

5-1.外張り断熱の家/初めての外張り断熱

初めての外張り断熱

 僕は、自邸といい兄の家といい、工務店には立て続けに辛酸をなめさせられていたので、二度と同じ轍は踏まないと心に決めていたのだが、すぐにまた同じ様な問題を突きつけられることになった。
 僕は大学の仕事で、週一回くらいのペースで八王子まで通っていたが、僕がかつて現場常駐していた頃から懇意にしてもらっていた八王子校のトップである総務部長から、自宅の設計を頼まれたのである。

 自ら積極的に人の輪の中に入ってゆくことが苦手で、営業マンには決してなれそうもない身としては、少しでも人と出会える機会を与えられ、朴訥な自分を理解し信頼してくれる人に出会えることは決して多いことではなかったから、部長の申し出はありがたかった。しかし、そこでやはり、この工務店を使いたい、という話しになったのである。

 大学の校舎を建てる様な大きな仕事は、名のある建設会社に発注されるが、その他、大学では教室の間仕切りを変更したり、内装を変えたり、といった細々とした工事が結構ある。部長が指名した工務店は、そんな工事を長年請け負っていたところで、部長の信頼の厚い工務店だった。僕は、自らの失敗を語り、それとなく部長に忠告したが、しかし、結論は変わらなかった。

 僕は以前、飲み会で遅くなり終電を逃してしまった時に、丁度一緒にその飲み会に参加していた部長の家に泊めてもらった事がある。冬場だったのでとても寒く、石油ストーブを焚いていても、コタツが欠かせない、という感じだった。その時の部長の住まいは高尾よりさらに奥に入った所だったので、都内よりも2〜3℃気温は低かったかも知れなかったが、それは典型的な東京の住宅の姿だった。だから、部長も今度は暖かい家にしたい、という希望を持っていたから、やはり高断熱・高気密を考えなければならない。しかし、充填断熱ではまず東京の大工さんでは上手く行かないに決まっている。なら、外張り断熱にするしかない。

 僕が外張り断熱に切り替えたのは、それが充填断熱よりも優れていたから、という理由ではない。確かに施工者が高断熱・高気密をきちんと理解していなくても結露の心配の少ない暖かい家を造る事ができる。そうした施工性の良さを評価すれば、優れていると言えるのかも知れない。しかし、それは全く本質的な問題ではない。施工者が高断熱・高気密の意味とその技術をきちんと理解しさえすれば、充填断熱でもきちんと施工できる筈なのだ。それをハナから学ぼうとしない意識の問題なのだ。

 当時、外張り断熱は、スタイロフォーム(正式にはスタイロエース)によるSHS工法とアキレスの外張り工法があった。SHS工法は、大学時代、私のゼミの先生が新・木造在来構法を開発している時からあったが、北海道の寒さの中では、その断熱性能を高めようとすると厚いスタイロフォームを使わなければならない。そうすると、今度は外壁を支えるのが難しくなって来るから、厚くするにも限度がある。だから、北海道ではあまり普及していなかったように思う。しかし、首都圏なら五十ミリの厚さもあれば充分だから、外壁材を支えるにも問題はない。そういう意味でも、外張り断熱は首都圏のような温暖地向きの工法と言えるかも知れない。

 SHS工法は断熱材メーカーのダウ加工が工務店に対してフランチャイズ方式で販売していた工法なので、加盟店となっている工務店しか使えない。高断熱・高気密工法は今でもフランチャイズ方式で行われているケースが多いが、それは、高断熱・高気密の意味をしっかり理解し、決められた仕様をきちんと守って施工しないと、返って危険な住宅を造ってしまうことになりかねないからだ。間違った施工をされて問題を起こされると、その工法自体の評判を落とすことになる。だから、しっかり技術を習得した工務店を加盟店として、ノウハウ込みで断熱材を販売するのである。そしてそれは、設計事務所がなかなか高断熱・高気密住宅の設計に踏み込めない理由のひとつでもあるだろう。

 しかし、そんな中にあって、アキレスの外張り工法は、一度講習を受けさえすれば、誰でも使える工法だった。次世代省エネ基準に照らしても、この土地なら断熱材の厚みも四十ミリで済む。しかし、問題は価格だ。それは外張り断熱全体に言える事なのだが、使用される発泡プラスチック系の断熱材は充填断熱に用いられるグラスウールなどと比べると圧倒的に高価なのだ。中でもアキレスは高いという印象だった。

2009年4月23日木曜日

4-4.失敗に学ぶ/兄の家の失敗

兄の家の失敗

 工務店選びを間違えると、とんだ失敗をしてしまうことになる。それは、札幌に住んでいた兄の家を新築した時もそうだった。設計自体は施主とのコミュニケーションがきちんと取れれば、遠隔地であっても何とかなるものだが、監理の問題がある。毎週,飛行機に乗って見に行ける訳ではない。だから、僕は、札幌で設計事務所を開いていた大学時代の友人に、施工者を選定し、工事監理もお願いしようと考えていた。しかし、兄が使いたい工務店があると言うので、その名前を教えて貰い、その札幌の友人に聞くと、「あそこはやめた方がいい」と言う。

 彼の実家が昔、その工務店で建てた家で、当時はいい仕事をしていたらしいが、今は全く質が落ちてしまい、高断熱・高気密工法もよく分かっていないという。それをそのまま兄に話し、高断熱・高気密工法がきちんと分かっている別の工務店を彼に紹介してもらった方がいい、と進言したが、その工務店の主が逆に兄の前で彼をけなしたのだろう。兄は、その工務店を信じる、ということで、結局、監理を彼に頼むこともできずに現場が始まってしまったのである。

 このように、施主が、この工務店を使いたい,と指定して来る場合が多々あるが、それは殆ど良い結果をもたらさない場合が多い。通常は、設計事務所が力のある工務店を何社か選定して施主に推薦する。そうした流れの中では、施主と工務店は元々,個人的な関係はなく、設計者は施主の代理人であるから、工務店も設計者の立場を尊重するのである。しかし、施主が設計者を差し置いて、工務店と個人的に繋がってしまうと、工務店は設計事務所の言うことを全く聞かなくなってしまうのだ。設計図の仕様を勝手に変えてしまっても、「お客さんの了解を得ていますから、」などと言われたら、こちらは何も言えなくなる。現場で間違った工事をしていても、口先だけで直します、と言って結局はうやむやにしてしまう。だから、設計事務所が施主の利益を守る為に行う工事監理は、全く意味をなさなくなってしまうのである。

 兄の家の現場には、工事中に2〜3度足を運ぶことができたが、まさにそんな典型的な例だった。こちらが指定しているサッシが高いからと言って勝手に安いサッシを入れ、玄関にはちょっと信じられない様な小さな扉が取り付けられていた。

 兄の家は嫁さんの両親との二世帯住宅で、地下にピアノレッスン室が2つもあり、延べ面積が百坪にもなる大きな家だったが、工事の終盤に入った頃、台風の直撃に遭った。
「地下室が床上浸水してしまったよ」
と、憔悴した様な声で東京の私の事務所に電話をかけて来た兄によく事情を聞くと、地下のドライエリアの上のサンルームのサッシがまだ取り付けていなかったためにそこから雨水が侵入したとの事だった。台風が来る事が分かっていた筈なのに、ブルーシートできっちり養生しておく、ということもしていなかったのである。結局、溜まった水を排水して乾燥させた後、地下室のフローリングの床を総てやりなおさなければならなかった。北海道にはそうそう台風が上陸しないから、まさかあんな大雨になるなんて思わなかった、とその工務店の主は釈明したそうだが、あまりにも無責任な話しである。

 こうして、兄の中でも自分が信用した工務店への不信感は募って行ったのだと思うが、それでも何とか工事は完了し、僕自身も工事監理が如何に大切であるか、ということを思い知らされながらも、その時は、兎に角、完成した事に安堵感を覚えていた。しかし、問題はただ隠されていただけだったのでる。

 住み始めてから3年くらいして、外壁の塗り壁の部分がひび割れて来きていることを兄に告げられたが、塗り壁の場合は下地や下塗りがきちんとしていないと、どうしてもひび割れを起こしてしまう箇所が出て来るものである。いずれにしろ、下地や塗りが悪ければ、もっと他の箇所でもひび割れが出て来るだろうから、もう少し様子を見よう、ということになりその後一年経ったところで、塗り壁の下地のボードが浮いて来ているから、外壁をやり直したい、という話しになった。しかし、兄も自分がかつて信じていた工務店にはもう頼みたくない、ということで、私の友人に改めていい工務店を紹介してもらい、現場の状況を確認してもらう事になった。

 状況を確認したその工務店からは、すぐに連絡が入った。原因は、外壁の通気層がことごとく塞がっていて、室内側から抜けて来る水蒸気の逃げ道がなく、塗り壁下地のボードが腐ってボロボロになっている、ということだった。「外壁通気工法」というのは、今では当たり前の工法である。設計図の中にも「確実に外壁の通気を確保する事」と念を捺していたのに、全く守られていなかったのだ。それに、それだけ室内側の水蒸気が外壁側に出るということは、気密シート張りも相当いい加減な施工が行われているに違いなかった。やはり住宅は、設計者がきちんと監理までできる体制でなければダメなのだ。このことは僕の大きな反省となった。

 結局、塗り壁部分の外壁を総て剥がし、通気を確保してやり直す事になり、まだ新築と言ってもおかしくないような時期に、兄は無駄な散財を強いられる事になってしまったのだ。兄は工務店を訴えたいという思いもあった様だが、当時、今にも潰れそうな状況だったという工務店を訴えたところで、見合った補償が得られる見込みはまるでなかったのである。
 
 

2009年4月22日水曜日

4-3.失敗に学ぶ/住宅の怖さを知る


住宅の怖さを知る

 さて、自分の家の設計ではお金にならないから、他の仕事をしながら空いた時間にコツコツとやるしかない。まず、細長い斜面の真ん中で半階分ほどの段差のある敷地だから、スキップフロアのウナギの寝床の様なプランになる。スキップフロアとは、半階上がって部屋があり、折り返してまた半階上がって部屋がある、即ち建物の前と後ろで半分ずつ階がずれている様な建物だ。眺めが良く、日当たりも良い2階にリビングを持ってくる住宅もよくあるが、ここではとんでもない話しだ。玄関まで辿り着くのに3階まで登るくらいの階段を上らなければならないのだから。それに、東側に大きな開口を取ればリビングからの眺めは充分である。玄関は真ん中の擁壁の少し手前になるから、同じ位置の南側に3帖の小さな光庭を作る。玄関を開けると、目の前に明るい光庭がある訳だ。この光庭に面して吹き抜けのダイニングを取り、隣家に遮られる日差しをトップライトから取り入れる。そして、光庭と合わせてこの家の光溜まりとする。これで、ダイニングは朝から夕方まで一日中明るい。

 玄関から半階上がった部分は化粧室を中心に浴室、洗濯乾燥室、ファミリークローゼット、そしてトイレがある。浴室は光庭に面して大きな窓を取り、ダイニングからリビングまで見下ろす事ができる。逆に言えば、リビングやダイニングから光庭を少し見上げると、風呂に入っている人影が見える、ということでもある。しかし、家族であれば気にならないし、来客が入浴する時にはブラインドを閉めれば良い。実際に暮らし初めての感想だが、朝日が明るい朝風呂は気持ちがいいし、夜、窓をいっぱいに開けて露天風呂気分で星空を眺められる。子供達のお気に入りは、風呂に入りながらリビングのテレビが見られることだ。
 洗濯乾燥室とファミリークローゼットは、無精な妻のたっての希望だ。洗濯した下着類を何故いちいちたたまなければならないのか、干しておいたものを乾いた順番に使ってゆけば、わざわざたたんで収納する必要はない筈だ。それが洗濯乾燥室だ。ファミリークローゼットとは、家族がそれぞれ自分の部屋で着替えるのではなく、皆が一カ所、決まった場所で着替えれば、スペースも集約できるし、一家の主婦が家中に散らかった衣類をいちいち拾い集めて廻る必要がない。合理的な考え方である。決して大きな家は造れないのだから、家族の生活パターンを改めて、極力空間の無駄を省く様に心掛けなければならない。そのように造ってしまえば、そんなプランに合った生活をするようになるものである。

 リビングの上は東向きの眺めの良い客間、北側に寝室と書斎、そこからまた半階上がると子供のスペースと、隣家が外れた南側の明るく広々としたバルコニーがある。フトンや大物の洗濯物を干すスペースは何処かに必ず必要になる。

 こうしてプランはほぼ固まったが、化粧室を中心としたフロアは、斜面に半分めり込む格好になるので、ここは鉄筋コンクリート造としなければならない。しかし、ここで問題が発生した。建築物は基本的に、建築基準法によって規制されているが、県の条例によって規制を受けているものもある。崖地に関する条例はどの県にでもあるが、崖地に建築物を建てる時の規制が定められている。道路と反対側の隣地、即ち、斜面の最高部に接する隣地の高い擁壁が、認可を受けていない古い擁壁だった為、それが我が家に崩れ掛かって来ても安全な様に、コンクリートの壁を立ち上げねばならなかったのである。土地が多少安かった分、建物にお金が掛かってしまった訳だ。しかし、隣地が抱える問題なのに、こちらが負担を強いられるというのは、何か理不尽な話しではある。

 さて、小さな家ではあったが困難な敷地に建てる家であったため、当時、2週間もあれば降りる確認申請が一ヶ月半も掛かってしまった。その間に、この不慣れな土地で高断熱・高気密住宅ができる工務店を探さねばならなかったが、当時はハウスメーカーなどでは高断熱・高気密を売りにした商品が出てはいても工務店レベルでは殆ど実績のあるところはなかった。僕が木造の図面のノウハウを教わった最高に優秀な工務店でさえ、その意味をよく理解してはいなかったから、恩返しがしたいと思っていても、二の足を踏んでしまった。しかし、宛てはあった。実は、妻の実家をお願いした北海道の工務店が、千葉に支店を出していたのである。現社長の弟が支店長としてやっているとのことだったので、そこなら高断熱・高気密住宅の施工を任せても大丈夫だろうと判断し、お願いすることにした。しかし、結論から言うと、これは僕の大きな間違いだった。

 充填断熱工法というのは、挿入した断熱材の部屋内側に施工する気密シートがどれだけきちんと隙間無く張られているか、ということが内部結露を防止する上で極めて重要な意味を持っている。シート同士の継ぎ目は重ねて気密テープで塞ぎ、コンセントなどで穴を空けてしまった部分も気密テープでしっかり塞がなければならない。水蒸気というのはピンホールのような小さな穴からでも簡単に抜けてしまうからだ。特に断熱材を挿入した外側は強度を保たせる為に構造用合板で固めていたから、一度入った水蒸気は通気層側には抜け難い。だからこそ入念に気密シートを張ることが重要なのである。しかし、工務店の主がある程度分かっていても、現場で作業をする職人達にはまるでそんな認識がなかったのである。僕が現場に付きっきりで付いていれば良かったのかも知れない。しかし、そんなことは不可能だ。殆どプラスターボードが貼られてしまった状態で、全部剥がせとは流石に言えない。できる範囲で直させたが、この時点から僕は、首都圏で高断熱・高気密を行うには、まず、工務店教育から始めなければならないのか、とちょっと気が遠くなった。

 下請けで来ていた大工さんも頼りなく、殆ど引き戸になっている内部の建具も、どれも閉めた状態で枠との間に隙が出てしまっていた。断熱サッシも、普及している北海道から運んだ方が安くなるので、北海道で樹脂製の断熱サッシを仕入れてもらい、そこから千葉県まで送り、現場に取り付けたが、施錠取り扱いに不慣れな職人さん達が仕事を終えて現場を出る時に、おかしな締め方をしていたために金物が壊れ、それを修理する為にわざわざ北海道から販売店の人を呼ばなければならなかった。

 そんな失敗続きの現場ではあったが、それでも何とか自邸は完成し、新しい生活が始まった。設計者が自らの自宅を設計するというのは、本来最も純粋に設計者自らの思想を表現する作品となり、それで華々しく建築界にデビューしてくる若い建築家も少なくない。数少ないそんなチャンスを逃す訳にはいかないと考え、それ相当のエネルギーを注ぎ込むものである。しかし、人の家では決して実験することのできない数々の実験を試みて、数々の失敗を思い知らされることになった僕の自邸は、とてもそんな華やかな舞台に上がる資格などなかった。住宅の怖さを僕はやっと知り始めたばかりだった。
 

2009年4月21日火曜日

4-2.失敗に学ぶ/あえて困難な土地に

あえて困難な土地に

 当時,僕は埼玉県の志木市に、3LDKのマンションを借りて住んでいた。小さな子供も二人いたし、いつまでも賃貸でお金を払っているのももったいないから、「家でも、、」という話になって来る。景気も一向に回復する気配はないし、実際に,仕事も先細りになってきているのに、とてもそんなことは考えられないと僕は思っていたが、妻の親が援助するからと迫って来る。確かに高い家賃をこのまま払い続けることを考えれば、ローンを組んでも月々の支払いはさほど変わらない。そこで、早速、土地探しを始める事になった。

 建て売りでも買うなら、そう苦労はないかも知れない。しかし、設計事務所をやっている人間が建て売りなどに住むわけにはいかない。と言って、いざ探し始めてみると、なかなかいい土地は見付からない。面積が広くて安くて便利な、そんな三拍子揃った土地などそうそうあるものではない。例えあっても何か決定的な問題を抱えている土地であるか、あるいは「建築条件付き」の土地である。この「建築条件付き」というのは、その土地を買うと、家を建てる時には必ずその不動産屋が指定した工務店を使わなければならない、という条件であるが、不動産屋が土地の手数料だけでは飽き足らず、工務店からもピンハネしようという見え見えの条件である。そんな不動産屋にくっついているくらいだから、工務店の実力というのも知れたものだ。設計事務所の仕事などしたことのない、いい加減な工務店ばかりである。この建築条件を外してくれる不動産屋もあるが、外すと土地の値段がぐんと跳ね上がるのである。その分が工務店から入るリベートなのだ。

 結局、住んでいた地域ではやはり坪単価が高く、千葉県までエリアを広げる事になった。当時はまだインターネットも普及していなかったから、千葉に住んでいた妻の友人から地元の不動産情報とか新聞チラシなどを送ってもらい、休みになると、車で地元の不動産屋巡りをした。埼玉ほどではなかったが、それでも条件の揃った土地はやはりなかなか手の出る値段ではなかった。そんな中で見つけたのが崖の様な急斜面の土地だった。埼玉県は割と平坦な地形であったが、千葉県の東京寄り、船橋近辺の土地は以外と起伏があり、傾斜地にコンクリートで高い擁壁を立て、家を建てているところが多かった。

 見つけた土地は、東斜面の土地で、道路に面して2階分くらいの高さでコンクリート製の車庫があり、その横の階段を上り切ると、上が平坦になっていた。でも、それも道路に面した前半分ばかりで、敷地の真ん中にコンクリートの擁壁が立ち、その後ろは地山の斜面がそのまま残されている。四十坪ばかりのひょろ長い敷地だから、平坦な前半分だけではとても家が建ちそうもない。だから、地主がコンクリートで折角、車庫を造っても、十年あまりも買い手が付かなかったのかも知れない。おまけに斜面上の敷地境界にはさらに古くて高い擁壁が立ち、また、南隣の敷地はこの敷地よりもさらに高い擁壁の上に家が建っており、南の陽光を遮っていた。よくこんな所に人が住んでいるものだ、と廻りを見渡しながら感心したが、それでもあまり悪いイメージは持たなかった。北隣の土地は地山の斜面に雑木林が残されていて緑が美しかったし、すっぽりと開けた東側は、家々の屋根の上を目線が抜け、向かい側の保存緑地となっている斜面まで遮るものは何もなかった。

 どんな困難な条件であっても解決してみせる、という気概がなくてはこの仕事はやっていられない。だからって、わざわざ困難な道を選ぶ必要はないのだが、世の中には以外とそんなあまのじゃくがいるものである。そして僕ももしかしたらそんなあまのじゃくの一人なのかも知れない。それは、この敷地に何らかの魅力を感じていた妻も同類なのかも知れないが。

2009年4月20日月曜日

4-1.失敗に学ぶ/大学の顧問に

大学の顧問に

 かつて事務所勤めをしていた時は、電話一本で必要な資料をメーカーの担当者が事務所まで届けに来てくれた。設計事務所は色々なメーカーが出している材料を使って建物を設計する訳だから、建材メーカーにとって設計事務所はお得意様である。だから、僕は営業的な意味でも、設計事務所が呼べばメーカーの担当者がすぐに来てくれるのが当たり前だと思っていた。しかし、それは間違いだった。

 独立した時に、同じ様に建材メーカーに電話をすると、全くその対応は違ったものだった。ほとんど相手にされない、まるで手のひらを返した様な扱いだった。その時僕は、何故か憤慨する代わりに何か小気味の良さを感じてしまった。独立するってことはこういうことなのだ、と。勤めていた時には、大先生の看板があったから、メーカーは来てくれていたのだ。それを僕は、自分が呼んだから来てくれていたと勘違いしていたのである。それに気付かされた瞬間、何か爽やかな風が流れたのだ。さあ、一から始めよう、と。

 独立した時は、皆が「すごいね」「羨ましいね」と言っていた。羨ましいと思うなら、独立したらいいのに、と思ったものだが、そういう人に限って決して独立することはなかった。しかし、独立した身になってみると、サラリーマンはいいな、と思うことが毎月やって来る。サラリーマンは与えられた仕事さえやっていれば、必ず給料が貰える。夏と冬にはボーナスも貰える。それが分かっているから、今度の夏休みには海外旅行に行こう、とか、新しい車を買おう、とか、予定が立つ訳だ。

 しかし、独立するとそうした予定が全く立たなくなる。景気のいい時なら、多少貯金もできて自由になるお金も持てるかも知れない。確かに、独立した当時はサラリーマンとして働いている人達よりは格段に収入は良かったし、僕自身何かお金のかかる趣味を持っていた訳ではないから、多少の蓄えはあった。しかし、バブルが弾けると、確実に仕事は減って来ていたから、少しでもお金を使わない様にしなければならない。来月、給料が貰えるのかどうかも分からなくなって来る。予定が立たないのでお金が使えないのである。

 そんな思いをしていた時に、一本の電話がかかってきた。それはかつて八王子の大学で現場監理をしていた時に、大学側の担当者の一人として仲良くしてもらっていた人からだった。
「大学で今度、建設顧問を置こうということになったので、君を推薦しようと思うのだが、どうだろうか」
想いもかけない話だった。

 この大学は元々、都内にある私立大学で、当時、多くの大学が手狭になった都内から郊外への移転を始めていた時期に合わせて、高尾山の麓の広大な敷地を造成し、毎年、少しずつ校舎を拡充していたのだった。その中核となる管理研究棟と図書館を、僕がかつて勤めていた設計事務所で先輩と共に設計し、新設された工学部の校舎と共に丸2年の間、現場監理に携わっていた僕にとっては、思い出深い現場だった。

 この大学では、職員に建築士の資格を持つ人がいないため、毎年発注される新しい施設の設計、施工に関して、大学側の立場で見てくれる専門家が必要ではないか、ということになり、何名かの候補が挙がっていた。その中で,最終的に僕が選ばれたのは、現場常駐当時、一緒に現場に出ていた大学側の担当者達がこの何年かの間に役職に付き、僕を強く推薦してくれたお陰だった。

 後から聞いた話だが、
「どうして、僕を推薦してくれたのですか?」
と尋ねると、
「普通は自分の会社のために働くものでしょ。でも、君はいつも大学側の立場に立って考えていてくれたからね。」
 その言葉を聞いて、僕は胸が熱くなった。自分が人にどんな風に見られているのか、自分自身ではなかなか分からないものである。でも、一生懸命仕事をしていれば、それを見てくれている人はちゃんといるのだ。だから、それを知らされた時の気持ちは今も忘れない。
 こうして、大学の建設顧問として雇われた僕は、仕事がどんどん先細りになってゆく中、ある程度安定した収入が得られる道を見出したのだった。

2009年4月19日日曜日

3-4.独立/本州の木造住宅を学ぶ


本州の木造住宅を学ぶ

 忘れた頃にやって来るコンペ必勝請負人の仕事や、ワンマン社長の荒唐無稽な話は、年の内に何度かあったが、それらはメインの仕事にはなり得なかった。だから、僕はそうした仕事をこなしながらも、住宅について真剣に考え始めていた。まずは、兎に角、木造についてきちんと勉強しなくてはいけない。

 そんな思いをしていた時に、独立して構造設計事務所を開いていた友人が、ある工務店の社長を紹介してくれた。丁度、以前勤めていた時に設備の設計を担当していた当時の同僚から、自宅の設計を頼まれていた時だったので、僕は彼にこの仕事を出す代わりに木造住宅の図面の描き方を教えて欲しい、と願い出た。

 本来、工務店を指導しなければならない設計事務所が、工務店に図面の描き方を教えてくれなどと言うのは、普通に考えれば、こんな恥ずかしい話はない。しかし、彼も若い設計者がろくに木造の事なんて分かっていない事を良く知っていたのかも知れない。だから、そんな正直な事を臆面もなく言う僕を気に入ってくれたのかも知れない。僕のかつての同僚の家の計画は、土地の契約交渉が上手く行かず、結局、絶ち消えになってしまったのだが、その工務店の社長が僕にある住宅の設計の仕事を紹介してくれたのだった。

 それは、その工務店とは仕事上の関係が深かった内装工事会社の社員のお宅で、「社長が推薦してくれる設計士さんなら」ということで、設計契約も結ばないまますぐに設計打ち合わせが始まってしまった。大宮市の70坪ほどの敷地は親が用意してくれていた土地だったので、普通の会社の社員の給料でも建物だけにお金を掛ける事ができたので、珍しく資金的には余裕のある住宅だった。

 区画整理されたばかりの敷地周辺はまだ住宅もまばらだったが、じきに住宅密集地になってゆくことが予想されたので、ここで求められたのは「パティオのある家」だった。まだ子供が小さかったので、安全に子供達が遊べる場所、外から見えない様に洗濯物が干せる場所、ご主人が仕事仲間を集めてバーベキューパーティができる場所が求められたが、内包された外部であるパティオは正に家の中心にあって多様な用途に供する空間となる。僕はこのパティオに向かって大きな建具が全面開放されるようにプランニングした。外と内の結界を取り払い、日本の伝統的な民家を現代のデザインで表現しようと試みた。そんな案が受け入れられ、順調に基本設計がまとまると、僕は木造の構造図とも言える軸組図や床伏図の描き方から細かな部分の納め方まで、徹底的に図面を起こし、工務店の社長に見てもらった。

 大きなビルなどを施工する建設会社なら、設計図を元に必ず施工図を起こすが、木造住宅では、余程優秀な工務店でもなければ施工図を起こすことなどまずない。しかし、この工務店はしっかり施工図を起こす工務店だった。多くの著名な建築家が指名する非常に優秀な工務店だったのである。だから、施工図にもそうした建築家の優れたノウハウが詰まっていた。僕は、そんな図面を見せてもらいながら、自分の設計図を元に必要な施工図を総て自分で起こしていった。これは結構きつい作業ではあったが、この経験がなければ今の自分はないのかも知れない、そのくらい貴重な経験だった。

 美しいデザインは隠れた細部に支えられている。精巧に練り上げられた隠れた部分がなければ、その美しいデザインは生まれない。それは、その建築家の企業秘密の様なものなのだ。だから、そんな技を身につけるには、普通なら何年も著名な建築家の元を渡り歩かねばならないだろう。そんな珠玉の詳細なのだ。しかし、そこで得られたものはそれだけではなかった。そこには、思いがけず大きな副産物があった。それは、東京の建築家は殆ど断熱には無頓着だった、ということである。

 建築家達の図面は、それこそデザイン的な部分は丹念に練り上げられ、充実した図面だったが、壁の中は、五十ミリ程度の裸のグラスウールが申し訳程度にただ挿入されているだけだった。これではすぐにずれ落ちてほとんど断熱の意味をなしてはいなかっただろう。しかし、それが逆に幸いして内部結露を起こさずに済んでいたのかも知れない。外部の建具もその家に合わせて設計し、ガラスもペアガラスなど用いてはいなかったから、気密性も断熱性もほとんど期待できない。東京では確かに冬場、死ぬほど寒くなる訳ではないから、それでいいのかも知れない。しかし、僕がこうして細部まで自分で図面を起こした大宮の家は、高断熱・高気密ではない最初で最後の作品となった。

 どんな商売でも同じだろうが、設計事務所は何か自分の強みを持っていなければいけない。他の事務所と差別化を図るということが大切なのだ。それを考えたとき、僕は折角、北海道で高断熱・高気密を学んだ(ことになっている)実績があるのだから、それを武器にしない手はない。冬の寒さを諦めていた夏の家を、夏、涼しく、冬、暖かい家にすること、東京の人にほんのちょっとの暖房だけで冬を快適に過ごせる家を提供しようと考えた。「開放的な高気密・高断熱住宅」から「大地に還る家」へと続く、僕の「木の家」づくりの始まりだった。

2009年4月18日土曜日

3-3.独立/初めての木造住宅


初めての木造住宅

 住宅を手掛ける設計事務所とはいったいどんなものなのか、という興味で本書を読み始めてしまった人にとっては、前置きがやけに長かったと感じるかも知れない。しかしそれは、住宅を設計する設計者の実像を見てもらうためにはどうしても必要なことだと考えてのことなので、どうぞお許し頂きたい。

 勿論、建築を設計している人達が皆、僕と同じ様な経験をして来ている訳ではない。高校を出てから工務店で木造を学び、そこから独立して設計事務所を始めた人もいるだろうし、大学を出てから住宅作家のアトリエで学び、独立した人もいるだろう。そういう人達なら木造住宅の仕事が入っても、手慣れたものだろう。しかし、僕は大学で建築を学び始めてから7〜8年経って、初めて木造住宅の設計というものを手掛けるのである。でも、大学を出て就職して建築の実務を学び、何年かして独立した人達のほとんどがそうなのだ。三十代くらいの若い設計者の殆どは木造の知識など全くと言っていいほど持ってはいないし、木造住宅の設計などした事がないのである。

 大学ではプランニングや空間のつくり方は学ぶが、それが木造であるか、鉄骨造であるか、鉄筋コンクリート造であるか、そんなことはあまり関係がない。木造がどんなサイズのどんな木を使って、どの様に組上げられるのか、木構造を専門に研究している先生でもいなければ、そんなことを学べる大学など殆どないのである。だから、高断熱・高気密住宅を研究していたゼミがあり、たまたまそんなゼミに在籍していたというのも珍しいことなのかもしれなかったが、僕はただ席を置いていた、と言ってしまえるくらい殆ど顔を出していなかったのである。だた、それでも、そんな設計者として皆と違っていた事がひとつだけあった。それは、高断熱・高気密住宅研究の第一人者を知っていた、ということである。

 僕は早速、妻の実家の新築のために、先生が開発した高断熱・高気密工法を習得している有能な工務店を紹介してもらった。それは新在来構法と呼ばれていたが、グラスウールによる充填断熱工法で、建て方の時に、「先張りシート」と呼ばれる気密シートを柱や梁の接合部に挟み込み、施工不良が問題となっていた気密シート張りを改善した構法で、日本の充填断熱工法の基本となった構法である。先生はこの構法のマニュアルをオープンにして、高断熱・高気密住宅の普及に勉めていたのである。そして、その先生の不肖の教え子は、この時はじめて高断熱・高気密住宅というものの実際の姿を知ったのである。

 僕は東京、妻の実家は北海道という遠隔地であったため、打ち合わせの殆どは電話で行っていたが、夏には帰省がてら模型を持参し、計画を進めて行った。基本のプランが固まると、木造の図面など描いた事がない僕は、工務店に必要な図面を描いてもらい、それをまたこちらでチェックし、予定よりも大幅に膨れ上がった金額を何とか認めてもらい、翌年、雪が消えるのを待って何とか着工に漕ぎ着けることができた。
 義父は、無口であったためか、打ち合わせに参加する事は殆どなく、設計の打ち合わせは殆ど義母と二人で行っていた。妻の実家は病院で、自宅も古い病院の建物の中にあったため、義母は「終の住処」として、長い間暖めていた自分の理想の家を、八百坪ほどあった病院の敷地の一角に実現したのだった。  

 しかし、勿論、何の支障もなく事が運んだ訳ではない。義理の息子と義理の母である、お互い遠慮がなかった訳ではない。しかし、三歩下がって云々という人ではなく、自分の主張ははっきり言う、この年齢ではあまり見かけない様な進歩的な義母だったので、営業トークなどできない設計者が当たった最初の住宅のお客さんとしては、とてもやり易いお客さんだったことは確かだ。

 木造二階建てのこの家は、亀の甲羅の様なプランに一階の軒まで末広がりに大屋根が架かっている。南北に降りる屋根の途中には十五世紀イタリアの建築家、パラディオが好んで用いた様な半丸のドーマーウィンドウが付き、屋根の頂部には二つの煙突に挟まれたハイサイドライトが設けてある。これはリビングの吹き抜けの上にある格天井から光を落とし、夏場の自然換気を担っている。古煉瓦調のタイルを貼った外観は、広い庭の緑に良く映え、個性のない田舎町に独特の雰囲気を持って建っていた。

 秋口の完成からひと冬を過ぎて、また夏になるまで、その出来上がった姿を僕は見る事ができなかったが、家中どこにいても温度差がなく暖かいこの家は、どんなにストーブを焚いても寒かった以前の家に比べ、ひと冬で消費した灯油の量は一気に1/5になったということだった。冬場はきっと東京にいるよりもずっと快適だったに違いない。

 初めて東京に暮らした時、夏のあの蒸し暑さと、底冷えする冬の寒さを経験し、東京の人は何て暑さ寒さに強いのだろう、と感心したものだった。
 かつての蝦夷地が北海道となって、文化はずっと北海道人が「内地」と呼んでいた本州の中央から入って来るものだったが、高断熱・高気密住宅の誕生は、北海道が初めて自ら文化を築き、中央に発信し始めたような、そんな気がしたものである。

2009年4月17日金曜日

3-2.独立/バブル崩壊

バブル崩壊

 バブル経済の崩壊後、日本はブレーキの壊れた車に乗って坂道を駆け下りている様な恐怖感に包まれていたから、如何に大手設計事務所であっても、その仕事量は確実に減って行った。そんな中、大手事務所にとっては、バブルの影響がまだ出ていない地方自治体からの指名コンペに勝つ事が、にわかに大きな意味を持ち始めていた。しかし、それまで仕事の殆どを外注任せにして、若い所員を育てることを怠って来てしまった大手事務所には、コンペを仕切れるリーダーが殆ど育っていなかったのだと思う。だから、バブル崩壊後に時々頼まれる仕事は、コンペに勝つ事だった。若い所員を下に付けてもらって、コンペをプロデュースするのが僕の仕事となった。

 大きな組織というのは、その組織力を生かしてノウハウを蓄積し、継承できるという大きな強みを持っていると思っていたが、決してそうではなかった。ノウハウは常に個人の中にあり、それを無闇に人に公開する事はない。その人が培った仕事上のノウハウは、その人が組織の中で生きてゆくための切り札なのだ。だから、組織というのはそんな個人の集まりに過ぎなかった。それでいて、対外的には組織としての信頼感を持たせることができる。組織の実像とはそんなものなのかもしれない。

 独立した限りにおいては、大手の設計事務所の下請け仕事に甘んじている訳にはいかない。少しずつでも自分の仕事を掴んで、自分の名前で仕事をしなければいけない。それこそが独立の意味なのだから。しかし、コンペ必勝請負人の仕事は、自分にとっても非常に勉強になることだったし、短期間に稼ぐ事のできる仕事だったので、この仕事の申し入れだけは、ありがたく受け止めていた。しかし、こんな仕事は常にギリギリになってから助けを求めて来る様な仕事だから、予定が立たないし、ただ黙ってお声がかかるのを待っている訳にもいかない。そろそろ自分で仕事を探さなければいけない。

 地元の名士であるとか、大会社の社長であるとか、有名芸能人であるとか、代議士であるとか、兎に角、社会的に力のある親の元にでも生まれて来なければ、設計事務所を開くというのは、実は無謀な事なのだ。だから、営業力の全くない若い設計者が、独立して最初にできる事と言えば、親類縁者に頼ることぐらいしかない。何とか小さな住宅一軒でもモノにして、それを足掛かりにするしかないのだ。

北海道の実家の父もそんな息子の状況を分かっていたから、「建て替える時は、頼むな」と言ってくれていた筈だった。しかし、フタを開けてみれば、払い下げのモデルハウスの抽選に見事当選し、ある夏、帰省した僕の目に飛び込んで来たのは、北海道特有の赤茶のセラミックブロックを積んだ懐かしい我が家ではなく、当時、無落雪屋根で売っていたハウスメーカーの四角い家だった。家具までそっくりそのままモデルハウスにあったものが付いて来ているので、自分がそこで暮らし、育って来た記憶さえも見事に消し飛んでしまっていたのである。家の廻りの風景は昔の面影をちゃんと残しているのに、そこだけが時間と空間が歪んでしまった様な奇妙な感覚を覚えたものである。
 しかし、捨てる神あれば拾う神ありである。北海道の登別にあった妻の実家を新築する事になり、それが僕にとっての住宅第一号となった。

2009年4月16日木曜日

3-1.独立/夢のリゾート計画


夢のリゾート計画

 帰国したばかりの僕が目の当たりにしたのは、バブルと呼ばれたかつてない好景気の日本だった。ほとんど無一文になって帰国して、北海道の田舎に籠っていた僕が、のんびりと次のステップについて考える余裕もなく東京での生活を始める様になったのは、ある大手設計事務所の知人からの「すぐに出て来い!」という一言がきっかけだった。僕は取る物も取り敢えず上京し、市ヶ谷に本社ビルを構えるその事務所で働き始めた。

 仕事は山の様にあった。最初は、役員達が席を連ねる営業部門の片隅に席を貰い、仕事になるのかどうか分からない案件のボリュームチェックや、施主説明用の簡単な計画案をひとりで作っていたが、一月ほどで設計部のひとつに廻され、商業ビルを一件任された。社員として入った訳ではない。時給いくらのバイトである。でも、社員では消化できないくらいの仕事があり、ビルひとつまとめあげるキャリアを持った人材が極端に不足していたから、即戦力となる人間がひとりでも必要だったのだ。売り手市場だったので、僕は一年でお金を貯めて都内で自分の事務所を開くことができた。その事務所からは入社の誘いを受けていたが、もう何処かに就職しようという気はなかった。と言って、周到に独立準備を進めていた訳でもない。独立すれば自然と仕事が入り、自分の建築が造れるのだ、と単純に考えていた。バブルがいつまでも続くと思っていた。

 バイト先の事務所で、やはり何処からか派遣されて来ていた腕の立つ若い女の子をひとり引き抜いて独立した僕に、その事務所は独立祝いとして、ある信用金庫の本店の設計を任せてくれた。太っ腹な時代だった。一万坪に及ぶ配送センターの計画も引き続き任されていたから、独立しても暫くは大手事務所の下請け仕事に追われていたことになる。

 しかし、ある時、シンガポールに一大リゾートを計画する話が持ち上がり、僕はある企業のオーナーを紹介された。主に健康食品の販売を行っていた会社だったが、不動産も各地に所有し運用していた。会社の社長という人にそうあった事はなかったが、紹介されたその人は典型的なワンマン社長で、役員であっても社長に異議を唱えることのできる雰囲気の会社ではなかった。だから今回の計画も社長がひとりで進めていることだった。

 シンガポールの沖合にビンタン島というインドネシア領の島がある。そこをインドネシアとシンガポールが共同でリゾート開発する計画があり、島を区画分譲していた。その一区画、三百三十ヘクタールの敷地に2つのゴルフコースを入れたリゾートのマスタープランを作って欲しいと言うことだった。僕は早速、シンガポールに飛び、リゾート開発を担当していた政府企業の担当者に会い、敷地を案内してもらうことになった。二日間による視察である。一日目は、シンガポール空軍の飛行場からヘリで島の上空からの視察、二日目は、フェリーでビンタン島の隣にある島へ渡り、そこからモーターボートで島に上陸する。高層ビルの建ち並ぶ未来都市のようなシンガポールの眼と鼻の先に、灼熱の太陽が真上から照らす未開の楽園があった。

 日本に戻ると僕は、当時、他の事務所をやめて押し掛けて来ていた所員と二人で、早速、島の敷地模型を造り、マスタープラン作成のための作業に取りかかった。総事業費を大雑把に見積もっても三百億円に及ぶ壮大なプロジェクトだった。そう、この事業が順調に進んでいれば、シンガポールにも事務所を構えなければならなかったし、バブルが弾けなければ、毎年、南の島でバカンスを過ごす、そんな優雅な生活を送っていたのかも知れない。

 僕らは、マスタープランを持ってシンガポール政府企業の担当者にプレゼンテーションし、先方の好感触を得て、プロジェクトは上手く進んで行くものと楽観視していた。国内の景気に少し陰りが見えて来ていたから、日本の銀行からの融資を引き出すのは難しくなるかも知れないと踏んで、外資に目を向けていたオーナーだったが、結局は必要となる最低限の資金を調達することもできなかったのである。夢は夢のまま終わったのだった。それでも、まだ僕らの必要経費を支払って貰えたのだから、大きく膨らませた風船が一気に破裂したようなショックはあっても、実質的なダメージを被った訳ではなかった。バブルの崩壊はまだ始まったばかりだった。

 その後も、このワンマン社長から様々な仕事の依頼を受けたが、実際に実現したものは未だにひとつもない。ビンタンビーチリゾートの計画が頓挫した後、ずっと以前から福島で計画していたゴルフ場の開発許可がやっと下りた、ということで、ゴルフ場全体のマスタープランからクラブハウス、その他付随するショッピング施設などの計画を行ったが、やはり銀行頼みのプロジェクトは一歩も先へは進まなかった。突然、電話で「明日、サイパンに行くから、○○時に空港で会おう」と言われて、一緒にサイパンに飛び、あるゴルフ場脇の敷地にどんな施設を造ればいいか提案を求められたり、丁度、駅前の土地を所有していた相模大野の再開発がらみで、大手の設計事務所を出し抜く様な計画案を求められたり、求められる事は皆、独立したばかりの小さな設計事務所にとっては刺激的な魅力を持つものばかりだったので、どんなにうさん臭い話であっても、断る勇気を持てないままずるずると付き合っていたが、設計料の支払いはどんどんうやむやになっていった。
 しかし、それから10年余りに渡って、僕はその社長と共に、ある時はサイパンに、そしてまたある時はフランスに飛び、実現する事のない計画案作りをすることになるのである。

2009年4月15日水曜日

2-4.ロングバケーション/日本を出て日本を知る

日本を出て日本を知る

 さて、年の半分は休みになってしまう大学生活だったから、僕はお金の続く限り旅をした。当時、重信房子がナポリで爆破事件を起こした頃だったから、行く先々で警察の取り調べにあったが、それでもイタリアの田舎を散策する気ままな一人旅は、有意義な時間だった。僕は、城郭都市や都市国家の時代の面影を残す小さな街にはできるだけ泊まるように心掛けていた。泊まって、その街のレストランでその街の名物料理を食べ、その土地のワインを飲む。そして、その街の夜を知らなければ、その街の生きた姿が見えないからだ。そして、僕はどの街でもドーモ(大聖堂)広場をリビングとして人々が集う大きな家の住人達と夜を楽しむ事ができた。

 フィレンツェでの日常においても、思い出深い事は沢山ある。大家のグアダンニ夫妻に誘われて中古のフィアットでフィエゾレの山荘に連れて行ってもらった事がある。フィエゾレはフィレンツェの街を一望できる小高い丘で、ルネサンス時代の頃からメジチ家などの富豪が別荘を持っていたところである。グアダンニ家の別荘も、決して大きくはなかったが、典型的なルネサンス様式の建物だった。暖炉の燃焼具合を制御する鋳物の弁を動かしながら、「当時のものが今でも使えるんだよ」と言って老紳士は自慢していた。そうそう、先にお話しした「フィレンツェの宮殿」という本は、ここで見せてもらったのである。

 「最高のワインを飲みに行こう」と、イタリア料理の修業に来ていた日本人シェフ(今やイタリアンの名手としてその名を轟かせている日高良美氏)に誘われて、朝早くに電車に飛び乗った事もある。お昼近くに最寄りの駅に着くと、そこからタクシーに乗り、広大なぶどう畑の中にあるレストランに着く。本当に美味しいワインとはどんなものなのか、ピッチャーに丸ごと移されたフルボトルの赤ワインの味は、何とも形容し難いものだった。しかし、毎日一本ずつは飲んでいたワインの味に、僕の舌は知らず知らずのうちに鍛えられていたのかも知れない。最初に口にした時の味は、酸味、苦み、渋みのそれぞれが我こそはと自己主張していたのだが、しばらくすると、それらががっちりスクラムを組んだ様に絶妙のバランスをもった味に変わっていった。文化はその土地の料理と酒に最も素直に表れる。

 ところで、イタリアの様に古い歴史的な建物を勝手に壊して新しい建物を建てる、ということが許されない国では、建築家の仕事はあまりない。だから、内装の仕事や中庭に面して外からは見えない部分の改築くらいしか実作を造る機会がない。アルバイト先を求めて、一度、フィレンツェ市内のある建築家の事務所を訪ねた事がある。そこでは、市役所から出されるプロジェクトに対して、具体的な計画案を作成して提出している、との事だったが、実現する事はまずないのだという。何人もの建築家に同じ物件の計画案を出させ、市はその報酬を皆に払っているのだ。だから、建物が建たなくても何とか生活はできるのかもしれない。仕事が欲しければミラノに行った方が良い、と誰もが言っていた。

 フィレンツェ大学の建築学部だけでも千六百人もの学生がいたが、こちらでは殆どの学生が卒業できないのだという。そして、卒業したからといって就職の宛がある訳でもないのである。彼らは卒業するために大学に入るのではなく、就職のコネを探しに大学に来るのだ。だから、いい就職先が見付かると、どんどん大学を辞めて行ってしまう。だからこそ、大学を卒業するということの意味も大きいのかも知れないし、流石にここはブルネレスキーの街である。ここでは医者、弁護士と共に、建築家は、仕事もないのに最も尊敬される職業なのだ。仕事が溢れていても、そうそう建築家と呼ばれ、尊ばれる事のない日本とは大違いである。だから、この街では定期的に世界の著名な建築家が呼ばれ、市中で展覧会を開いたり、建築学部の学生のために特別講演が催されたりする。僕がいた時だけでも、マリオ・ボッタ、アルド・ロッシ、ハンス・ホライン、磯崎新、ノーマン・フォスターといった蒼々たるメンバーが登場した。今でこそ人口五十万人ほどの地方都市にすぎないが、十五世紀、パリの貴族がまだ手掴かみで食事をしていた時に、ナイフとフォークを使っていた、当時ヨーロッパで最も文化的な都市だった。そして、建築家がはじめて誕生したルネサンスの都フィレンツェの人々は、今でも建築を芸術の頂点として敬愛しているのである。

 イタリアは僕に色々な事を教えてくれた。日常の些細なことの意味から、絵画、彫刻を見る眼、ブルネレスキーの建築とその時代、街の魅力、人々の美意識、でも、一番考えさせられたのは、日本という国についてだった。僕のロング・バケーションは最後まで漠然とした意識の中で彷徨っていたのかも知れないが、例えそうであっても、その後の人生の道筋に少なからず意味を与えてくれたような気がする。

2009年4月14日火曜日

2-3.ロングバケーション/フィレンツェ大学にて


フィレンツェ大学にて

 語学学校を終えると、引っ越さねばならないので、大学が始まる前に僕は不動産屋を廻り、郊外の割と新しいアパートに移った。新しいと言っても十九世紀の建物である。そして、ここの大家さんはそれこそ由緒正しい老夫婦だった。階級社会を知らない日本人にとっては、それがどんなものであるのか、なかなか実感として感じる機会は少ない。しかし、この老紳士はかのメジチ家が権勢を振るっていたルネサンス期に、同じくフィレンツェの名士であったグアダンニ家の末裔だった。大聖堂前や、サント・スピリト広場に面して今もその名を残す宮殿がある。「フィレンツェの宮殿」と題された本には、千四百十七年から現在に至るまでのグアダンニ家の系譜が載っていた。今でこそ、郊外にひっそりと余生を送る身であるが、その物腰や立ち居振舞いにはやはり庶民とは明らかに違う気品があった。僕は、そんな大家さんの離れを借りる事になったのだった。

 部屋は中庭に面した広い部屋が2つと、キッチンとバスルーム、それと不似合いなくらい広い玄関ホールがあった。高い天井にはベネチアガラスのシャンデリアが下がり、部屋には、その骨董的価値は相当のものであろうと思われる様な精巧なレリーフが施された家具が置かれていた。
 大学はサンマルコ広場にあったので、以前住んでいた所から通うのと距離的にはあまり変わらず、徒歩でも二十分程度のところだった。

 イタリアの大学は旧市街の中にあるので、ひと所にまとまって校舎がある訳ではない。フィレンツェ大学はサンマルコ広場に面して大学の本部建物があったが、各学部の教室は広場を中心にして色々な建物の中に点在していた。多くは昔の修道院の建物を利用していたが、学生は、授業の度に街の中を移動するのである。イタリアでは高校の卒業資格を取れば、誰でもどこの大学に入るのも自由なので、毎年、入学して来る学生の数は定まらない。だから、その年、学生が多いと新たに教室を確保しなければならなかったりもする。日本の様に広い敷地の中に大学があるのではなく、イタリアではどこに大学があるのか分からない。街の中に溶け込んでいるのである。

 イタリアの大学はアメリカやイギリスの様に、留学生に対するカリキュラムが確立している訳ではない。自分の好きな授業を選んで受講する事はできたが、大学院のような専門課程がある訳ではなかった。だから、日本の大学でイタリアの建築を専門に学んでいる研究者達は、紹介状を持って直接、教授の所に出向き、教えを請う訳だが、僕にそんなツテがある訳ではなかった。元々、大学で勉強する事が目的ではなく、フィレンツェという街を肌で感じることが自分の本来の目的だったので、大学は長期滞在ビザを取得するための手段に過ぎなかったとも言える。それでも、いくつか興味を持った授業には足繁く通っていたし、かつてスーパースタジオとして一世を風靡したナタリーニ教授の授業は、興味深く受講していた。ロッキ教授のレスタウロという保存修復の授業は、それこそ中世・ルネサンス期の建物を研究し、実際に市中の古い建物の修復活動を行っていたので、当時の建築技術を知る上ではまたとない機会だった。

 しかし、振り返ってみると、学生達とブルネレスキー研究会を作って、議論し合ったことが一番の思い出かも知れない。ブルネレスキーとは、フィレンツェの大聖堂の巨大なドームを造った偉大なる建築家である。建築家という言葉が彼のために生まれたとも言われ、ルネサンスは彼によって始まったのである。フィオレンティーノ(フィレンツェっ子)にとっては、今でも英雄中の英雄である。でも、研究会に集まったのはフィオレーティーノばかりではない。イタリア中から学生が集まっていたので、いつも我が街が一番という話になる。そう、そもそも都市国家であったこの地の住人はイタリア人であるという以前にまずローマ人であり、ミラノ人であり、ナポリ人なのだ。田舎から東京にやってきた人達が集まって、我が街が一番と自慢し合う光景など見た事がない。でも、本当はそういう気持ち、そういう意識こそが大事なのだ。

 数々の著名な芸術家を輩出していた街だったから、フィレンツェの人々は人一倍目が肥えていた。だから、建物ひとつ建てるだけでも市民の批判にさらされて大変だったと言う。石やレンガを積み上げて造る建物は、一度建てるとそれは永遠に建ち続ける事になる。ひとつの建物が街を造るのである。だから、決して下手なものは造れない。そうやって何百年に渡って造られて来た街なのである。造っては壊し、また造っては壊して経済発展を遂げて来た日本の街が、そして、大規模再開発などで一気に造られた街が、こんなに人々に愛されるだろうか。人々に愛され誇りを持たれるには、きっとそれだけの時間の蓄積が必要なのだ。

 こうして、今までの生活とは全く違った文化の中に身を置いてみると、色々な発見があるものである。日本で理由も分からず習慣としてきた些細なことでも、こうして違う文化に接する事で、その意味を改めて知る事ができる。例えば、日本人は食事の後になぜお茶を飲むのか、日本にいてそんなことを考えることなどまずないだろう。イタリアでは食事の最後にやたらと甘いドルチェを食べたり、砂糖をたっぷり入れてドロドロするようなエスプレッソを飲む。料理の中に糖分を入れないイタリアでは、確かに食事の後に甘いものが欲しくなる。日本では料理の中に砂糖やミリンといった糖分が入っていることが多いから、食事の後はお茶を飲んでさっぱりしたいのではないか、日本とイタリアでは食生活の中で糖分を取る位置が違うからなのだ、などとひとりであれこれ分析して納得してみたりするのである。

 しかし、建築学部に学ぶイタリア人学生と話をしていていつも困ったのが、日本の建築についての説明を求められた時だ。イタリアではこれだけ古い建築文化を大切に保存し、それを誇りにしているのに、日本の建築について、日本の現状についてどう説明すれば良いのだろう。僕自身受けて来た建築教育では、近代合理主義以降の世界しか見ていなかったし、就職してからも、次の時代の表現性にしか問題意識はなかったのだ。その歴史の中で、いかに優れた木造建築の文化を持っていても、その時の僕には、それを簡単に説明するだけの基礎知識も持ち合わせてはいなかったのである。住宅を意識した事のなかったそれまでの僕にとっては、それこそ日本が木の文化である、ということ自体、葬り去られた過去の様に感じていたのかもしれない。

2009年4月13日月曜日

2-2.ロングバケーション/イタリア人は街に住んでいる


イタリア人は街に住んでいる

 僕は、早速、サン・ロレンツオ教会近くにあった語学学校に登録を済ませ、毎日、イタリア語漬けの生活が始まった。少し遠回りにはなったが、毎朝、サント・スピリト教会の脇を通り、宝石店の建ち並ぶベッキオ橋を渡り、ウフィッツィ美術館の回廊を抜け、ミケランジェロのダビデ像のレプリカが立つシニョーリア広場を横断し、美しい尖塔の立つドーモ(大聖堂)を横目に学校へ通った。フィレンツェは元々ローマ起源の街なので、中心街の道路は整然とした碁盤の目の形をしている。そして、そこから放射状に道が広がっていた。

 夏休みに入る頃だったので、語学学校は生徒の殆どが近隣諸国からやってきた若者達で溢れていた。フランスやスペインといった同じラテン語圏の人なら、あえて語学学校に来る必要もないくらい簡単にイタリア語をマスターしていたが、ゲルマン系のドイツ人やオーストリア人だって、多少まごついてはいても、同じ横文字である。どんなに頑張ってもやはり、言語のまるで違う日本人がいつでも劣等生だった。日本で多少ともイタリア語を学を学んで来た積もりだったが、やはり言葉はその土地に放り出されてどっぷり浸からなければ、身にならないのかもしれない。

 毎日、朝から夕方までイタリア語漬けになり、帰ってからも宿題に追われ、一月もしない内にイタリア語で夢を見た。勿論、一ヶ月でマスターしたなどという話ではない。しかし、ひとつの壁は越えた様な気がした。それまでは、相手の話す言葉を頭の中で一度日本語に翻訳し、自分が話そうとする時にもやはり日本語をイタリア語に変換してからやっと言葉になる、という感じだったのが、相手のイタリア語をそのまま理解し、イタリア語で返す、ということが少しできるようになったのである。確かにそうならなければ、会話にはならないのである。それでも結局,僕のイタリア語はものにならなかったし、帰国してイタリア語を使う機会など全くなくなってしまうと、すぐに忘れてしまうのだが。確かにそれも残念なことではあるのだが、僕は別にイタリア語をマスターするために来た訳ではないのだ。

 僕は休みになると、兎に角、フィレンツェの街を歩き回った。フィレンツェの歴史的な遺構はほとんど旧市街の歩いて廻れる範囲にあったし、歩くのに丁度良いスケールの街なのである。ルネサンス期前後に建てられた市中の教会はどれも皆、個性的で独特の雰囲気を持っていたし、珠玉の様な絵画や彫刻で飾られていた。ウフィッツィ美術館は何度行ったか分からない。最初に入った時は、「これはとても敵わない」と思った。展示されている絵の殆どが中世絵画である。即ち、キリスト教絵画だから、聖書の世界が分からないとそこに描かれているものが何なのか、何も分からないのだ。流石にイタリア語の聖書を読むだけの力はなかったので、僕はすぐに日本から聖書を送ってもらった。そして、何度も足を運ぶうちに、僕にとって中世は決して暗黒時代ではなくなっていたのである。これは確かに旅行で一度訪れただけでは決して掴む事のできない経験だった。

 ここでの生活でまず一番困ったのは、シェスタの時間である。朝、買い物をし忘れると、夕方まで待たなくてはならないのだ。日差しの強い日中は、街は不思議なくらい静かになる。店の多くが朝早くから開いているが、お昼前の十一時頃に閉まり、夕方五時頃になって漸くまた開くのである。昼寝の習慣のない僕が、このペースに慣れるには、予想外の時間が必要だった。

 さて、ここでは、夜になると何処からともなく人が沸いて来て市中を練り歩いている。レストランやバー、映画館、遊戯施設などは遅くまで営業しているが、普通の店はとっくに閉まっている。見ていると、皆、何処か目的地があって、そこに向かって歩いているのではない。ウインドウショッピングをしたり、広場で必ずやっている大道芸人の見せ物を見たりしながら、家族や友人同士でおしゃべりをして、ただ歩いているのである。そう、確かに夜の街はそれだけで楽しいのだ。

 夏休みの時期に入っていたから、観光客相手の店以外は、次々と店仕舞をし、バカンスに行ってしまう。語学学校の通り道にあった果物屋は、店頭に大量の果物を残したまま、それが皆朽ち果てるまで丸一月の間、シャッターが開かなかった。しかし、街の住人がいなくなった以上に観光客が押し寄せていたから、街は相変わらず賑やかで、様々なイベントが催されていた。街を眼下に見下ろすベルベデーレ要塞では毎晩、野外映画が催されていたし、巷ある広場という広場でも見事な仮設会場を作り、音楽会などが開かれていた。家のすぐそばのサント・スピリト教会の中庭では、新作オペラが催され、僕も、日本にいた時にイタリア語学校で一緒になり、丁度フィエゾレの音楽学校で学んでいた芸大生(現在作曲家・ピアニストとして活躍している日野原秀彦氏)と一緒に見に行ったりした。こうした小さなイベントを観光客はほとんど知らないから、観客はほとんど地元の人達である。席が隣り合わせになったご夫人が「毎年、楽しみにしているの」と微笑んでいたのを今でも覚えている。

 僕は街がこんなに楽しいものだ、と感じた事はなかった。夜になると何処からともなく溢れ出して来る人々、ルネサンス時代から変わらない街の、既存の古い施設を巧みに使って催される様々なイベント、ここに暮らしている人達は、家に住んでいるのではない、街に住んでいるのだ。「家は小さな都市であり、都市は大きな家である」というイタリアルネサンスの建築家アルベルティの言葉はまさしく格言である。

2009年4月12日日曜日

2-1.ロングバケーション/花の都フィレンツェヘ


花の都フィレンツェへ

 僕がなぜ事務所を辞めて日本を飛び出したのか、人に聞かせて成る程、と思わせる上手い説明ができる訳ではない。当時は確かに、著名な建築家の元で数年修行をして、それからキャリアアップのため海外へ留学する、という人は多かった。最先端の建築を学べるのはやはりアメリカだったから、事務所の先輩達も次々とアメリカへ飛び立っていた。しかし、自分がそれほど野心や向学心が旺盛だったか、と言えば、何か違う様な気がする。それも、アメリカではなくイタリアへ行く、というのは、建築史でも専門にやっている大学の研究者でもなければ、結構珍しいことだった。勿論、突然思い立ったことではない。それは、北海道の事務所にいた頃見た一枚の写真が発端だったかもしれない。大聖堂を中心に赤い瓦の屋根が埋め尽くすフィレンツェの町並みを撮った航空写真だった。それは、まさにタイムスリップした様な光景であり、中世をそのまま残した街で人々はどの様に暮らしているのだろう、という興味を大いにかき立てられた。

 ポスト・モダンが盛んに叫ばれていても、それが何か新しい様式を生み出す力にはならず、闇の中に手を差し出す様に後に来る建築を模索していた時代だったから、より新しい建築に触れ、次の時代をカタチにすることは、建築をやっている人間にとっては最も重要なテーマだった。だから皆、アメリカを目指してゆくのだが、僕は逆に何かもっと本質的なものに触れてみたい、という欲求の方が強かったのかも知れない。勿論、アメリカに行けば、新しい建築理論や技術は学べるかも知れない。しかし、新しい名建築を見たければ、ガイドブックを片手に旅行すれば済む事である。しかし、何百年、否、千年に及ぶ町並みを理解する為には、短時間旅行しただけでは無理に違いない。そこに住み、そこに暮らす人達と触れ合い、彼らと同じものを食べることで初めて見えて来るものがあるのではないか、そんな漠然とした思いのまま僕はフィレンツェという街に暮らし始めたのだった。強い日差しが肌を刺す7月の初めのことだった。

 大学の新学期が始まる十一月まで少しでもイタリア語を学んでおく必要があったから、出発前に日本から現地の語学学校への申し込みをし、宿泊先も斡旋してもらっていたので、ローマから特急に乗りフィレンツェのサンタ・マリア・ノッベッラ駅に着いた僕は、重い荷物をタクシーに乗せ、運転手に住所を告げると、運転手は迷う事無く真っすぐその住所まで僕を運んでくれた。

 西欧では、それぞれの通りの端から建物の入り口に番号がふられている。片側が偶数番号なら、通りの反対側は奇数番号となる。だから、通り名とその番号が住所ということになる。ホテルの客室もこれに習っている訳だが、ここでは日本の様に土地に住所が付いている訳ではないのだ。そして、タクシーの運転手になるには、街の通り名を総て覚えていなければならない。そんな話は日本にいた時に何かの本で読んで知ってはいたが、それは間違いではなかった様だ。

 こうして僕は、アルノ河を渡り、サント・スピリト教会にほど近い旧市街の中にとりあえずの住処を確保した。ダイニングキッチンは決して広くはなかったが、ベッドルームはゆったりとして、おまけにシャワールームが無闇に広い、そんな部屋だった。驚いたのは、自分の部屋に入るために3つの鍵が必要だったことだ。まず、通りから表玄関を開ける鍵、そして、僕の部屋は3階にあったので、階段で3階まで上がり、3階の住戸3戸の共用のホールに入るための鍵、そこから自分の部屋に入るための鍵である。否、イタリアでは一階は昔から作業場、工房、商店、倉庫といった非住居系の用途に使われていたので、地階という言い方をする。だからイタリア式に言えば、僕の部屋は二階ということになる。さて、扉はいずれもホテルの様に自動ロックになっているので、鍵を持たずに部屋を出ると、締め出されてしまうことになる。東洋からやってきた人なら一度は苦い経験をするだろう。

 大家さんの話では、十四世紀に建てられた建物だと言う。六百年以上に渡って改装を繰り返しながら使っているのである。旧市街の建物は皆そうなのだ。
 窓には皆、グリーンにペンキを塗られた両開きの鎧戸が付いていて、これを外側に開く。街中の鎧戸がグリーンなのだから、きっとルネサンス時代からそうなのだろう。そして、両開きのガラス窓は部屋内側に開く。そう言えば、玄関の扉も総て内側に開く。これは、日本とは逆である。ある著名な住宅作家が、玄関扉は人を招き入れるのだから内側に開くのだ、と言っていたが、そうではない。通りに面している扉が外側に開いては、通行人に対して危険だから内側に開くのである。それが伝統になっているのだ。窓については、外側に開くとガラスの清掃ができないから、内側に開くのである。

2009年4月11日土曜日

1-3.修業時代/現場を知らなければ設計はできない

現場を知らなければ設計はできない

 実施設計という建築の実務を学んだ後は、現場監理である。図書館の仕事を終えて程なく、八王子にある大学の管理研究棟と図書館を建てる事になり、先輩所員と二人で担当する事になった。この時、初めて施主との打ち合わせに参加する事になる。入社して3年近くが過ぎた頃であった。

 施主と言っても、役所の担当者であったり、企業や、今回の様な大学の担当者は、それなりに施設建設に携わって来た人達で、素人ではない。専門用語を使ってもちゃんと話は通じるし、図面も読める。建築を知っている人が施主であると、やりづらいのではないかと思う人がいるかもしれないが、それは全く逆である。どんな仕事でも同じだろうが、普段仕事でなんの気無しに使っている言葉を、ひとつひとつ誰にでも分かり易い言葉に直すというのは、そう容易い事ではないし、図面を見ながら同じ空間をイメージできるというだけで、こんなにやり易い事はない。だから、大学との設計打ち合わせは、今思えば、相当楽な打ち合わせだったのだ。

 どんな経緯かは知る由もなかったが、恐ろしいほどの短期間で2つの建物をまとめあげなければならなかった。デザインをじっくり吟味する間もなく図面を仕上げなければならなかったが、僕は市立図書館を終わらせたばかりだったので、引き続き図書館を担当する事になり、先輩所員が監理研究棟を受け持つ事になった。

 しかし、どちらも同時に仕上げなければならない状況の中で、自分の受け持ちの分だけに目を向けていればいいということにはならない。管理研究棟は図書館より遥かに大きかったし、大学の本部が入る象徴的な意味を持つ建物だから、都内に残っている明治期の本館建物を彷彿させるデザインが求められていた。

 今ならパソコンでコンピューターグラフィクスなどを使って様々なデザインを効率よく検討する事ができるが、当時はまだ平行定規を使って図面を手書きしていた時代である。

 スケッチやパースを描きながら、一方では模型を刻み、デザインワークを突破して、図面をまとめてゆく。そして、どんな仕事でも同じ様に、締め切りがあれば、その締め切りに合わせて仕事は終わるのである。僕はこの2棟の建物と、引き続き計画されている工学部棟の現場常駐監理として、高尾山の麓まで2年間、毎日通う事となった。

 現場を見るのはこれが初めてだったから、現場監理というものがどういうものか何も分からずに放り出されたようなものだった。そう、誰も教えてはくれないのだから、自分で勉強するしかない。自分達でまとめた図面だから、基本は図面通りにできているかをチェックすることだが、住宅と違って大きな建物の場合、建設会社はその設計図を元に必ず施工図というものを起こす。

 施工図は、現場で実際に使用される施工のための図面で、現場監理者としてはまず、この施工図をチェックするという作業がある。設計の段階ではまだその建物が実際に建つのだ、という実感はないが、こうして施工図をチェックする段階になると、見落としがあったり、何か間違いがあるともう取り返しがつかないのだ、というプレッシャーが重くのしかかって来る。自分の設計した建物が現場で実際に造られてゆくのを目の当たりにするのは、設計者として勿論、嬉しいことではあるのだが、その責任の重さの方が遥かに大きい様な気がした。

 その他、現場ではやたらと書類が多いし、検査も多い。鉄筋コンクリート造の図書館は、配筋検査、型枠検査、コンクリート打設の立ち会い、というローテーションで各階が建ち上がってゆくが、管理研究棟は鉄骨鉄筋コンクリート造、即ち、鉄骨が柱梁の芯となってその廻りに鉄筋コンクリートが打ち込まれる造りであったので、工場まで鉄骨検査に行かなければならない。これは相当専門的な事なので、構造設計の担当者が同行する。大学側のスタッフも、立場上、同行する。

 建設会社の現場事務所の一隅に設計事務所の現場監理事務所が置かれていたが、大学にとっても今回は大きな工事だったので、大学の現場監理事務所も同じ屋根の下に入り、設計の打ち合わせに出ていたスタッフの多くが、引き続き現場担当者として常駐していた。

 僕がチェックした施工図や書類は、大学側の承認印が捺されて施工者側に戻される流れとなっていたので、僕は、毎日の様に大学の現場事務所に足を運び、図面や書類の内容説明をし、問題点について大学側の意見を聞いて、施工者側と調整を計る、という仕事に追われた。勿論、意匠担当の僕が、構造、設備、電気といった他の施工図や書類をひとりで見切れる訳ではない。毎週、現場定例会議が開かれ、その時に各担当の設計者が現場にやってきて、それらの図面、書類をチェックするのである。

 しかし、最終的にはそうした図面や書類がトータルに整合性が取れているか取りまとめるのは僕の仕事であり、5時になって現場の喧噪が嘘の様に静かな夕暮れを迎えた後も、一人残ってやらなければならない事は山ほどあった。

 それでも、事務所の中にいた時よりは自分のペースで仕事ができたし、行き帰りの電車は一般の通勤客とは逆方向だったので、往復2時間という通勤電車の中は、僕にとって一級建築士の試験勉強をするのに最も集中できる場所だった。現場常駐を命じられなかったら、きっとなかなか試験に合格などできなかっただろう。事務所の先輩達が「足の裏のご飯粒」と、よく言っていたのを思い出す。取らなくても別にどうってことはないが、取らないと何か気持ちが悪い。独立でも考えていなければ別に建築士の資格など持っていなくても仕事に支障がある訳ではないが、いつまでも取らないでいるのも落ち着かない、ということである。

 こうして現場は着々と進んで行ったが、そんな淡々とした日常は誰しも必ず気持ちの上でダレが出てくるものである。だからそんな日常を活性化させるための非日常的なイベントが必ず催される事になる。月に一回、定例会議の後に開かれる懇親会は、現場事務所の会議室を使って飲めや歌えやの大宴会となる。この時ばかりは施主も設計者も施工者も酒の力を借りて、普段、お互いに口に出さないそれぞれの思いをぶちまけるのである。そこには流石に下請けの職人さん達まで加わることはなかったが、夏にはバーベキュー大会、秋にはソフトボール大会が催され、職人さん達が大活躍した。

 現場には、それぞれ皆違う立場で仕事に従事している人達が集まっている。だから、当然、色々な不満もあるし、軋轢もある。しかし、皆に共通していることがひとつだけある。それは、この建物を造る為に集まっている、ということであり、ものづくりのプロとして、誰もが「良いものを造りたい」と思っている、ということである。日常に鬱積してゆく様々な不満は、そうした本来皆が持っている気持ちを失わせてしまう。だから、時にそうした負のエネルギーを発散させることが必要なのである。それは、こうした建設の現場に限らず、どんな会社であっても、人が集まって働いている以上、欠かせない事なのかも知れない。現場とは社会の縮図のようなものだった。

 こうして次の年も引き続き工学部棟の現場を見て、丸二年ぶりに本社事務所に戻り、小さな物件をひとつこなしてから、僕は事務所を辞めた。

2009年4月10日金曜日

1-2:修業時代/デザインワーク

デザインワーク

 東京の本社は、赤坂のアメリカ大使館を背にしたビルのワンフロアを借り切っていた。新中野から最寄りの国会議事堂前までは丸ノ内線一本という便利さだったが、そこまで毎朝、北海道では決して経験した事のない満員電車という乗り物に乗り、スポーツクラブに通う手間を省く事になる。当時、社長以下の役員でも四十代で、設計のスタッフの殆どがまだ二十代だった。東大、東工大、早稲田、芸大出身といった蒼々たるメンバーの中で、誰も聞いた事もない様な田舎の大学からやってきた僕は、田舎者であったが為に逆に恐れを知らず、そんな職場に溶け込んで行った。

 東京に来て最初に与えられた仕事は、九州のある墓地の中に建てる小さな礼拝堂の仕事だった。小さな紙切れに社長が描いた落書きの様なスケッチを渡され、そのイメージをカタチにしてゆかねばならない。ほとんど機能と呼べる機能のない建物なので、デザインの拠り所はこのスケッチしかない。そして、担当は僕一人なので、誰も助けてはくれない。逆に、暇を見ては県立美術館を担当していたスタッフの手伝いもしなくてはならない。指名コンペが入ると、その手伝いにも駆り出される。だから、与えられたひとつの仕事に集中できる時間はあまりないし、スケジュールも立たなくなる。

一番大変なのが、社長との打ち合わせだ。「デザインワーク」と呼ばれたその打ち合わせは、事前に書面で申し込みをしなくてはならない。しかし、無事にデザインワークの許可が下りて、指定された時間に図面や模型を抱えて待っていても、なかなかお呼びが掛からない。先に始まっている他のデザインワークが長引いているならまだいい。父親が政治家だったという強力なベースを持ってはいたが、自分の顔ひとつで営業をしている社長は、なかなか事務所に戻って来ないのだ。漸く戻って来ても終電ぎりぎりだと、結局その日のデザインワークは流れてしまい、また改めて申し込みをし直さなければならない。マイナーな仕事なら、社長が見ずに担当者に任されることはあるが、そんなケースはめったにない。殆どの仕事は社長にとって重要な仕事であり、自分がデザインを見なくてはいけないと考えている。そして、大きな組織と違うのは、入社して間もない新入社員であっても、大先生に直接自分の仕事を見てもらえる、ということだ。建築を志す者にとってこれほど勉強になることはない。だから皆、文句も言わずに残業し、デザインワークのためにいつ帰るとも分からない社長の帰りを待つのである。組織事務所を装ってはいたが、その建築家の元で修行したいと建築家の卵達が集まる、いわゆるアトリエ事務所と呼ぶ方が、どちらかと言えば近かったような気がする。

 礼拝堂は3階分ほどの落差のある広場を繋ぐ斜面を跨ぐような配置で計画された。最上階に玄関ホール、大広間、特別展示室という3つの部屋が順に並んでいるだけのシンプルな構成であったが、龍の背のような形をした屋根に切り込まれたトップライトから落ちる陽光がそれぞれの空間を彩っていた。玄関ホールから一階分下りると、斜面に半分潜り込んだ部分にトイレがあるだけで、そのままもう一階分下の広場のレベルに下りると、そこは広々としたピロティになっており、不思議な列柱が立ち並んでいた。それは、型枠大工ではとても造れなかったため、家具屋にその型枠の製作を発注する事になった独特の造形をしたコンクリート打放しの柱だった。墓地には日陰がないので、普段は墓参者のための休憩スペースになる。そして、何か式典が行われる時には、ちょっと冷厳な雰囲気を持った会場となるのである。それこそ、墓石と同じ稲田石を貼った殆ど窓のない建物であるため、大きな石棺を石柱で支えている様にも見える。ストーンヘッジとか酒船石の様でもある。これが、小さな紙切れに落書きの様に描かれた大先生のスケッチから生まれたものだった。

 礼拝堂の仕事が終わると、コンペで取った市立図書館の実施設計を担当する事になった。実施設計とは、基本的なプランが固まった後、即ち、基本設計が終わった後に、実際に施工するための、そして、施工会社が見積もるための詳細な図面を作る事である。住宅の様な小さな建物なら、ひとりで総ての図面を描く事ができるが、大きな建物の場合、意匠、構造、設備、電気といった専門の設計者がいる。そして、僕は意匠としてデザインを含め、総てをコーディネイトする役割を担っている。しかし、ここで誰か経験豊かな先輩が色々と教えてくれる訳ではない。自分で学んでゆくしかないのだ。そう、職人の世界と何も変わらないのかも知れない。大工の棟梁も、弟子に手取り足取り教える訳ではない。弟子が自分で棟梁の技を盗んでゆかねばならないのだ。

 図書館の仕事は実施設計が終わり、積算事務所に見積書の作成を依頼し、減額調整を済ませると、そこで僕の仕事は終わりとなった。後は工事監理を担当する部長が引き継ぐ事になる。礼拝堂の仕事も現場を訪れたのは、工事の途中に一回と、竣工式の時だけだったが、この図書館の仕事も僕が直接、施主に会って打ち合わせることは一度もなかった。礼拝堂は施主が「先生にお任せします」ということで動いていたし、図書館は市の担当者とプロジェクトマネージャーが打ち合わせをしていたので、僕が直接、施主と顔を合わせることはなかったのである。

 事務所の中でのシステムだが、ひとつの物件が動き出すと、その物件の担当者は通常2人いて、ひとりはプロジェクトマネージャーといって施主との打ち合わせなど対外的な役割を担い、もうひとりはジョブキャプテンといって、物件に関わる設計者を統括し、図面を取りまとめる役割を担っている。プロジェクトマネージャーは営業的な意味もあるので、大方、役員の誰かが担当していたが、これは社長が留学していた時にアメリカの大手設計事務所で覚えたやり方だった。

2009年4月9日木曜日

1-1.修業時代/過酷な修行のはじまり



過酷な修行のはじまり

 「住宅に始まり、住宅に戻る」とは、建築を学んでいる学生なら誰でも一度は耳にした事のある言葉である。いや、この言い方は少し違っているかも知れない。誰か高名な建築家が語った言葉なのかも知れないが、詳しい事はよく分からない。しかし、その意味はこうだ。建築を学び始めるときは、誰にでも一番身近な、そして小さな住宅の設計を学び、それから徐々に大きな建物の設計を学んでゆく。設計者は大方、就職して大きな建物や大きなプロジェクトを担当し、力を付けてゆくが、その晩年にはまた住宅に戻る。住宅は初心者でもできるが、経験を積んで歳を取ると、また住宅に戻ってゆくものだ。住宅の設計とはそれだけ奥深いものなのだ。

 学生であった当時は「そんなものかな?」と漠然と思いながら、自分は、どうせ建築をやるなら大きな建物を設計したい、と設計志望の建築科の学生なら誰でも思うそんな極めて当たり前な学生だった。だから、4年の時に入ったゼミが、当時最先端で高気密・高断熱住宅を研究していた先生のゼミであっても、ほとんどそんなゼミには顔を出す事もなく、東京の著名な建築家の事務所に就職するためのプレゼン資料づくりや、卒業制作に没頭していた。

 4年の秋口、ほとんどの学生の就職が内定してゆく中であっても、僕は全く動じる事無く自分の世界に邁進していた。当時は、大手の設計事務所への就職は難しく、ましてや田舎の大学の学生にとって、著名な建築家の設計事務所への就職など全く未知の世界であったので、設計がしたいと思っている優秀な学生でもそのほとんどが建設会社へ就職していた。従って、担当の教授も僕に大手建設会社を受ける事を当然の様に勧めて来たが、僕は「就職先は自分で探します」と言って全く聞く耳を持たなかった。

 若い頃には意味もなく自信に満ち溢れている時期というのがあるものである。現実の社会というものを全く分かってはいないし、切り開くべき未来しかそこにはないのだから。そして、そんな訳の分からない自信に意味を持たせてしまうことだってあるのだ。僕は卒業設計で賞を貰い、それを携えて東京のある有名な設計事務所に合格した。大学の卒業式が間近に迫った3月中旬の事だった。

 数百人を擁する大手の組織事務所からみれば弱小と言われても仕方がないが、その事務所は最高裁判所や警視庁本庁舎などの設計で名高い、当時、総勢五十人ほどの中堅の設計事務所で、東京に本社たる事務所を構え、北海道にも小さな事務所を持っていた。そして、僕は最初の一年を札幌で過ごす事になった。元々、実家が札幌から電車で二十分ほどの隣町であったため、新居を探したり、就職準備に時間を要する事は何もないと思っていた。

 しかし、僕は就職して一週間で引っ越しを余儀なくされる事になった。就職初日から、終電で帰宅できない事が分かったのだ。スタッフは新人の僕を入れて4人という小さな事務所であったが、著名建築家の事務所だけあって、普通の小規模事務所ではちょっとありえないような質の高い物件をいくつも抱えていた。その中でも当時佳境を迎えていたのが、地元が生んだ戦前のモダニズムを代表する画家、三岸好太郎のための小さな美術館の計画だった。



 新人の僕はその模型製作にほとんどの時間を割かねばならなくなったが、デザインが決まっていてそれを模型にする訳ではない。デザインを決める為に模型を作るのである。だから、ひとつの空間にいくつものスタディ模型を拵えなければならない。そして、その模型を見てデザインを決定するのはこの事務所内にいる誰でもなければ、この建物の設計を依頼した発注者でもない。それは、東京の事務所からやってくる経営者たる建築家ひとりなのである。施主との打ち合わせの為に模型を作っているのではない。大先生との打ち合わせの為にひたすら夜を呈して模型作りに励むのである。

 大学において建築を専攻する学生が学ぶのは技術的な事ではない。勿論、建築に必要とされる知識は一通り学ぶ訳だが、実際に必要な知識や技術は、就職してから現場で学ぶ事になる。学生の間は次々と設計の課題を与えられ、与えられた課題に対して自分がどのように考え、どのように解決したか、図面や模型を使ってプレゼンテーションしなくてはならない。そんな繰り返しの中で、僕らは自然と図面から空間をイメージできるように訓練されて来るので、建築を学んだ人間は、図面を見ると誰でも自分と同じ空間を見ている、という錯覚を抱いてしまうことになる。そして、図面だけでおよそ空間が把握できてしまうと、模型を作る意味を見出せなくなり、だんだん模型を作らなくなる。しかし、これではいい建築が生まれない。大先生になっても模型に固執するのは、図面で把握できる既成の空間から離れ、自分自身もまだ経験した事のない新たな空間を創造したいからなのだ。その意思こそ大先生たる所以なのである。

 僕は事務所から歩いて十分ほどの所に古びた木賃アパートを見つけ、わずか3帖しかない部屋を借りた。寝る為だけの部屋であるから、それで充分だった。勿論、安い初任給で、しかも残業代など全く期待できない時代だったから、少しでも出費は抑えなければならなかった。引っ越してからすぐ、終電というタイムリミットがなくなった僕の帰宅時間は深夜の一時、二時、三時となり、それでも始業時間は普通の会社と変わらなかったから、週末に実家に帰って一日寝ている、という生活が続いた。ある日、公務員だった父がそんな僕を見兼ねて、事務所の所長に電話をした事があった。「お父さんに怒られちゃったよ」と、所長から聞いて初めて知った事だったが、「設計の仕事ってそんなもんだよ」と逆に僕が父を諌めたものだった。確かに肉体的には極限状態にあったが、精神的には充実感を味わっていたことは確かだったし、少しでも早く一人前になって自分の建築というものを実現したい、という思いが強かったのだ。

 さて、美術館の後は、峠の茶屋と呼ばれた町立の物産センター、そして同じく峠のスキー場に計画された町立のホテルの仕事を次々とこなし、最初の一年があっという間に過ぎた後、僕は東京本社事務所に転勤となった。北海道よりも一月も早いサクラの季節に、中野の鍋屋横町から小路を入った住宅密集地の中にある鉄筋コンクリート3階建ての古いワンルームマンションが僕の新しい住処となった。窓を開けると、ビルの隙間からかろうじて西新宿の高層ビルを眺めることができる、僕にとっての初めての東京生活だった。