2009年4月9日木曜日

1-1.修業時代/過酷な修行のはじまり



過酷な修行のはじまり

 「住宅に始まり、住宅に戻る」とは、建築を学んでいる学生なら誰でも一度は耳にした事のある言葉である。いや、この言い方は少し違っているかも知れない。誰か高名な建築家が語った言葉なのかも知れないが、詳しい事はよく分からない。しかし、その意味はこうだ。建築を学び始めるときは、誰にでも一番身近な、そして小さな住宅の設計を学び、それから徐々に大きな建物の設計を学んでゆく。設計者は大方、就職して大きな建物や大きなプロジェクトを担当し、力を付けてゆくが、その晩年にはまた住宅に戻る。住宅は初心者でもできるが、経験を積んで歳を取ると、また住宅に戻ってゆくものだ。住宅の設計とはそれだけ奥深いものなのだ。

 学生であった当時は「そんなものかな?」と漠然と思いながら、自分は、どうせ建築をやるなら大きな建物を設計したい、と設計志望の建築科の学生なら誰でも思うそんな極めて当たり前な学生だった。だから、4年の時に入ったゼミが、当時最先端で高気密・高断熱住宅を研究していた先生のゼミであっても、ほとんどそんなゼミには顔を出す事もなく、東京の著名な建築家の事務所に就職するためのプレゼン資料づくりや、卒業制作に没頭していた。

 4年の秋口、ほとんどの学生の就職が内定してゆく中であっても、僕は全く動じる事無く自分の世界に邁進していた。当時は、大手の設計事務所への就職は難しく、ましてや田舎の大学の学生にとって、著名な建築家の設計事務所への就職など全く未知の世界であったので、設計がしたいと思っている優秀な学生でもそのほとんどが建設会社へ就職していた。従って、担当の教授も僕に大手建設会社を受ける事を当然の様に勧めて来たが、僕は「就職先は自分で探します」と言って全く聞く耳を持たなかった。

 若い頃には意味もなく自信に満ち溢れている時期というのがあるものである。現実の社会というものを全く分かってはいないし、切り開くべき未来しかそこにはないのだから。そして、そんな訳の分からない自信に意味を持たせてしまうことだってあるのだ。僕は卒業設計で賞を貰い、それを携えて東京のある有名な設計事務所に合格した。大学の卒業式が間近に迫った3月中旬の事だった。

 数百人を擁する大手の組織事務所からみれば弱小と言われても仕方がないが、その事務所は最高裁判所や警視庁本庁舎などの設計で名高い、当時、総勢五十人ほどの中堅の設計事務所で、東京に本社たる事務所を構え、北海道にも小さな事務所を持っていた。そして、僕は最初の一年を札幌で過ごす事になった。元々、実家が札幌から電車で二十分ほどの隣町であったため、新居を探したり、就職準備に時間を要する事は何もないと思っていた。

 しかし、僕は就職して一週間で引っ越しを余儀なくされる事になった。就職初日から、終電で帰宅できない事が分かったのだ。スタッフは新人の僕を入れて4人という小さな事務所であったが、著名建築家の事務所だけあって、普通の小規模事務所ではちょっとありえないような質の高い物件をいくつも抱えていた。その中でも当時佳境を迎えていたのが、地元が生んだ戦前のモダニズムを代表する画家、三岸好太郎のための小さな美術館の計画だった。



 新人の僕はその模型製作にほとんどの時間を割かねばならなくなったが、デザインが決まっていてそれを模型にする訳ではない。デザインを決める為に模型を作るのである。だから、ひとつの空間にいくつものスタディ模型を拵えなければならない。そして、その模型を見てデザインを決定するのはこの事務所内にいる誰でもなければ、この建物の設計を依頼した発注者でもない。それは、東京の事務所からやってくる経営者たる建築家ひとりなのである。施主との打ち合わせの為に模型を作っているのではない。大先生との打ち合わせの為にひたすら夜を呈して模型作りに励むのである。

 大学において建築を専攻する学生が学ぶのは技術的な事ではない。勿論、建築に必要とされる知識は一通り学ぶ訳だが、実際に必要な知識や技術は、就職してから現場で学ぶ事になる。学生の間は次々と設計の課題を与えられ、与えられた課題に対して自分がどのように考え、どのように解決したか、図面や模型を使ってプレゼンテーションしなくてはならない。そんな繰り返しの中で、僕らは自然と図面から空間をイメージできるように訓練されて来るので、建築を学んだ人間は、図面を見ると誰でも自分と同じ空間を見ている、という錯覚を抱いてしまうことになる。そして、図面だけでおよそ空間が把握できてしまうと、模型を作る意味を見出せなくなり、だんだん模型を作らなくなる。しかし、これではいい建築が生まれない。大先生になっても模型に固執するのは、図面で把握できる既成の空間から離れ、自分自身もまだ経験した事のない新たな空間を創造したいからなのだ。その意思こそ大先生たる所以なのである。

 僕は事務所から歩いて十分ほどの所に古びた木賃アパートを見つけ、わずか3帖しかない部屋を借りた。寝る為だけの部屋であるから、それで充分だった。勿論、安い初任給で、しかも残業代など全く期待できない時代だったから、少しでも出費は抑えなければならなかった。引っ越してからすぐ、終電というタイムリミットがなくなった僕の帰宅時間は深夜の一時、二時、三時となり、それでも始業時間は普通の会社と変わらなかったから、週末に実家に帰って一日寝ている、という生活が続いた。ある日、公務員だった父がそんな僕を見兼ねて、事務所の所長に電話をした事があった。「お父さんに怒られちゃったよ」と、所長から聞いて初めて知った事だったが、「設計の仕事ってそんなもんだよ」と逆に僕が父を諌めたものだった。確かに肉体的には極限状態にあったが、精神的には充実感を味わっていたことは確かだったし、少しでも早く一人前になって自分の建築というものを実現したい、という思いが強かったのだ。

 さて、美術館の後は、峠の茶屋と呼ばれた町立の物産センター、そして同じく峠のスキー場に計画された町立のホテルの仕事を次々とこなし、最初の一年があっという間に過ぎた後、僕は東京本社事務所に転勤となった。北海道よりも一月も早いサクラの季節に、中野の鍋屋横町から小路を入った住宅密集地の中にある鉄筋コンクリート3階建ての古いワンルームマンションが僕の新しい住処となった。窓を開けると、ビルの隙間からかろうじて西新宿の高層ビルを眺めることができる、僕にとっての初めての東京生活だった。

1 件のコメント:

  1. 「究極の100年住宅のつくり方」の愛読者です。
    野平さんがその後、どの様な展開を見せているのか楽しみです。

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