2009年4月14日火曜日

2-3.ロングバケーション/フィレンツェ大学にて


フィレンツェ大学にて

 語学学校を終えると、引っ越さねばならないので、大学が始まる前に僕は不動産屋を廻り、郊外の割と新しいアパートに移った。新しいと言っても十九世紀の建物である。そして、ここの大家さんはそれこそ由緒正しい老夫婦だった。階級社会を知らない日本人にとっては、それがどんなものであるのか、なかなか実感として感じる機会は少ない。しかし、この老紳士はかのメジチ家が権勢を振るっていたルネサンス期に、同じくフィレンツェの名士であったグアダンニ家の末裔だった。大聖堂前や、サント・スピリト広場に面して今もその名を残す宮殿がある。「フィレンツェの宮殿」と題された本には、千四百十七年から現在に至るまでのグアダンニ家の系譜が載っていた。今でこそ、郊外にひっそりと余生を送る身であるが、その物腰や立ち居振舞いにはやはり庶民とは明らかに違う気品があった。僕は、そんな大家さんの離れを借りる事になったのだった。

 部屋は中庭に面した広い部屋が2つと、キッチンとバスルーム、それと不似合いなくらい広い玄関ホールがあった。高い天井にはベネチアガラスのシャンデリアが下がり、部屋には、その骨董的価値は相当のものであろうと思われる様な精巧なレリーフが施された家具が置かれていた。
 大学はサンマルコ広場にあったので、以前住んでいた所から通うのと距離的にはあまり変わらず、徒歩でも二十分程度のところだった。

 イタリアの大学は旧市街の中にあるので、ひと所にまとまって校舎がある訳ではない。フィレンツェ大学はサンマルコ広場に面して大学の本部建物があったが、各学部の教室は広場を中心にして色々な建物の中に点在していた。多くは昔の修道院の建物を利用していたが、学生は、授業の度に街の中を移動するのである。イタリアでは高校の卒業資格を取れば、誰でもどこの大学に入るのも自由なので、毎年、入学して来る学生の数は定まらない。だから、その年、学生が多いと新たに教室を確保しなければならなかったりもする。日本の様に広い敷地の中に大学があるのではなく、イタリアではどこに大学があるのか分からない。街の中に溶け込んでいるのである。

 イタリアの大学はアメリカやイギリスの様に、留学生に対するカリキュラムが確立している訳ではない。自分の好きな授業を選んで受講する事はできたが、大学院のような専門課程がある訳ではなかった。だから、日本の大学でイタリアの建築を専門に学んでいる研究者達は、紹介状を持って直接、教授の所に出向き、教えを請う訳だが、僕にそんなツテがある訳ではなかった。元々、大学で勉強する事が目的ではなく、フィレンツェという街を肌で感じることが自分の本来の目的だったので、大学は長期滞在ビザを取得するための手段に過ぎなかったとも言える。それでも、いくつか興味を持った授業には足繁く通っていたし、かつてスーパースタジオとして一世を風靡したナタリーニ教授の授業は、興味深く受講していた。ロッキ教授のレスタウロという保存修復の授業は、それこそ中世・ルネサンス期の建物を研究し、実際に市中の古い建物の修復活動を行っていたので、当時の建築技術を知る上ではまたとない機会だった。

 しかし、振り返ってみると、学生達とブルネレスキー研究会を作って、議論し合ったことが一番の思い出かも知れない。ブルネレスキーとは、フィレンツェの大聖堂の巨大なドームを造った偉大なる建築家である。建築家という言葉が彼のために生まれたとも言われ、ルネサンスは彼によって始まったのである。フィオレンティーノ(フィレンツェっ子)にとっては、今でも英雄中の英雄である。でも、研究会に集まったのはフィオレーティーノばかりではない。イタリア中から学生が集まっていたので、いつも我が街が一番という話になる。そう、そもそも都市国家であったこの地の住人はイタリア人であるという以前にまずローマ人であり、ミラノ人であり、ナポリ人なのだ。田舎から東京にやってきた人達が集まって、我が街が一番と自慢し合う光景など見た事がない。でも、本当はそういう気持ち、そういう意識こそが大事なのだ。

 数々の著名な芸術家を輩出していた街だったから、フィレンツェの人々は人一倍目が肥えていた。だから、建物ひとつ建てるだけでも市民の批判にさらされて大変だったと言う。石やレンガを積み上げて造る建物は、一度建てるとそれは永遠に建ち続ける事になる。ひとつの建物が街を造るのである。だから、決して下手なものは造れない。そうやって何百年に渡って造られて来た街なのである。造っては壊し、また造っては壊して経済発展を遂げて来た日本の街が、そして、大規模再開発などで一気に造られた街が、こんなに人々に愛されるだろうか。人々に愛され誇りを持たれるには、きっとそれだけの時間の蓄積が必要なのだ。

 こうして、今までの生活とは全く違った文化の中に身を置いてみると、色々な発見があるものである。日本で理由も分からず習慣としてきた些細なことでも、こうして違う文化に接する事で、その意味を改めて知る事ができる。例えば、日本人は食事の後になぜお茶を飲むのか、日本にいてそんなことを考えることなどまずないだろう。イタリアでは食事の最後にやたらと甘いドルチェを食べたり、砂糖をたっぷり入れてドロドロするようなエスプレッソを飲む。料理の中に糖分を入れないイタリアでは、確かに食事の後に甘いものが欲しくなる。日本では料理の中に砂糖やミリンといった糖分が入っていることが多いから、食事の後はお茶を飲んでさっぱりしたいのではないか、日本とイタリアでは食生活の中で糖分を取る位置が違うからなのだ、などとひとりであれこれ分析して納得してみたりするのである。

 しかし、建築学部に学ぶイタリア人学生と話をしていていつも困ったのが、日本の建築についての説明を求められた時だ。イタリアではこれだけ古い建築文化を大切に保存し、それを誇りにしているのに、日本の建築について、日本の現状についてどう説明すれば良いのだろう。僕自身受けて来た建築教育では、近代合理主義以降の世界しか見ていなかったし、就職してからも、次の時代の表現性にしか問題意識はなかったのだ。その歴史の中で、いかに優れた木造建築の文化を持っていても、その時の僕には、それを簡単に説明するだけの基礎知識も持ち合わせてはいなかったのである。住宅を意識した事のなかったそれまでの僕にとっては、それこそ日本が木の文化である、ということ自体、葬り去られた過去の様に感じていたのかもしれない。

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