2009年4月17日金曜日

3-2.独立/バブル崩壊

バブル崩壊

 バブル経済の崩壊後、日本はブレーキの壊れた車に乗って坂道を駆け下りている様な恐怖感に包まれていたから、如何に大手設計事務所であっても、その仕事量は確実に減って行った。そんな中、大手事務所にとっては、バブルの影響がまだ出ていない地方自治体からの指名コンペに勝つ事が、にわかに大きな意味を持ち始めていた。しかし、それまで仕事の殆どを外注任せにして、若い所員を育てることを怠って来てしまった大手事務所には、コンペを仕切れるリーダーが殆ど育っていなかったのだと思う。だから、バブル崩壊後に時々頼まれる仕事は、コンペに勝つ事だった。若い所員を下に付けてもらって、コンペをプロデュースするのが僕の仕事となった。

 大きな組織というのは、その組織力を生かしてノウハウを蓄積し、継承できるという大きな強みを持っていると思っていたが、決してそうではなかった。ノウハウは常に個人の中にあり、それを無闇に人に公開する事はない。その人が培った仕事上のノウハウは、その人が組織の中で生きてゆくための切り札なのだ。だから、組織というのはそんな個人の集まりに過ぎなかった。それでいて、対外的には組織としての信頼感を持たせることができる。組織の実像とはそんなものなのかもしれない。

 独立した限りにおいては、大手の設計事務所の下請け仕事に甘んじている訳にはいかない。少しずつでも自分の仕事を掴んで、自分の名前で仕事をしなければいけない。それこそが独立の意味なのだから。しかし、コンペ必勝請負人の仕事は、自分にとっても非常に勉強になることだったし、短期間に稼ぐ事のできる仕事だったので、この仕事の申し入れだけは、ありがたく受け止めていた。しかし、こんな仕事は常にギリギリになってから助けを求めて来る様な仕事だから、予定が立たないし、ただ黙ってお声がかかるのを待っている訳にもいかない。そろそろ自分で仕事を探さなければいけない。

 地元の名士であるとか、大会社の社長であるとか、有名芸能人であるとか、代議士であるとか、兎に角、社会的に力のある親の元にでも生まれて来なければ、設計事務所を開くというのは、実は無謀な事なのだ。だから、営業力の全くない若い設計者が、独立して最初にできる事と言えば、親類縁者に頼ることぐらいしかない。何とか小さな住宅一軒でもモノにして、それを足掛かりにするしかないのだ。

北海道の実家の父もそんな息子の状況を分かっていたから、「建て替える時は、頼むな」と言ってくれていた筈だった。しかし、フタを開けてみれば、払い下げのモデルハウスの抽選に見事当選し、ある夏、帰省した僕の目に飛び込んで来たのは、北海道特有の赤茶のセラミックブロックを積んだ懐かしい我が家ではなく、当時、無落雪屋根で売っていたハウスメーカーの四角い家だった。家具までそっくりそのままモデルハウスにあったものが付いて来ているので、自分がそこで暮らし、育って来た記憶さえも見事に消し飛んでしまっていたのである。家の廻りの風景は昔の面影をちゃんと残しているのに、そこだけが時間と空間が歪んでしまった様な奇妙な感覚を覚えたものである。
 しかし、捨てる神あれば拾う神ありである。北海道の登別にあった妻の実家を新築する事になり、それが僕にとっての住宅第一号となった。

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