2009年4月19日日曜日

3-4.独立/本州の木造住宅を学ぶ


本州の木造住宅を学ぶ

 忘れた頃にやって来るコンペ必勝請負人の仕事や、ワンマン社長の荒唐無稽な話は、年の内に何度かあったが、それらはメインの仕事にはなり得なかった。だから、僕はそうした仕事をこなしながらも、住宅について真剣に考え始めていた。まずは、兎に角、木造についてきちんと勉強しなくてはいけない。

 そんな思いをしていた時に、独立して構造設計事務所を開いていた友人が、ある工務店の社長を紹介してくれた。丁度、以前勤めていた時に設備の設計を担当していた当時の同僚から、自宅の設計を頼まれていた時だったので、僕は彼にこの仕事を出す代わりに木造住宅の図面の描き方を教えて欲しい、と願い出た。

 本来、工務店を指導しなければならない設計事務所が、工務店に図面の描き方を教えてくれなどと言うのは、普通に考えれば、こんな恥ずかしい話はない。しかし、彼も若い設計者がろくに木造の事なんて分かっていない事を良く知っていたのかも知れない。だから、そんな正直な事を臆面もなく言う僕を気に入ってくれたのかも知れない。僕のかつての同僚の家の計画は、土地の契約交渉が上手く行かず、結局、絶ち消えになってしまったのだが、その工務店の社長が僕にある住宅の設計の仕事を紹介してくれたのだった。

 それは、その工務店とは仕事上の関係が深かった内装工事会社の社員のお宅で、「社長が推薦してくれる設計士さんなら」ということで、設計契約も結ばないまますぐに設計打ち合わせが始まってしまった。大宮市の70坪ほどの敷地は親が用意してくれていた土地だったので、普通の会社の社員の給料でも建物だけにお金を掛ける事ができたので、珍しく資金的には余裕のある住宅だった。

 区画整理されたばかりの敷地周辺はまだ住宅もまばらだったが、じきに住宅密集地になってゆくことが予想されたので、ここで求められたのは「パティオのある家」だった。まだ子供が小さかったので、安全に子供達が遊べる場所、外から見えない様に洗濯物が干せる場所、ご主人が仕事仲間を集めてバーベキューパーティができる場所が求められたが、内包された外部であるパティオは正に家の中心にあって多様な用途に供する空間となる。僕はこのパティオに向かって大きな建具が全面開放されるようにプランニングした。外と内の結界を取り払い、日本の伝統的な民家を現代のデザインで表現しようと試みた。そんな案が受け入れられ、順調に基本設計がまとまると、僕は木造の構造図とも言える軸組図や床伏図の描き方から細かな部分の納め方まで、徹底的に図面を起こし、工務店の社長に見てもらった。

 大きなビルなどを施工する建設会社なら、設計図を元に必ず施工図を起こすが、木造住宅では、余程優秀な工務店でもなければ施工図を起こすことなどまずない。しかし、この工務店はしっかり施工図を起こす工務店だった。多くの著名な建築家が指名する非常に優秀な工務店だったのである。だから、施工図にもそうした建築家の優れたノウハウが詰まっていた。僕は、そんな図面を見せてもらいながら、自分の設計図を元に必要な施工図を総て自分で起こしていった。これは結構きつい作業ではあったが、この経験がなければ今の自分はないのかも知れない、そのくらい貴重な経験だった。

 美しいデザインは隠れた細部に支えられている。精巧に練り上げられた隠れた部分がなければ、その美しいデザインは生まれない。それは、その建築家の企業秘密の様なものなのだ。だから、そんな技を身につけるには、普通なら何年も著名な建築家の元を渡り歩かねばならないだろう。そんな珠玉の詳細なのだ。しかし、そこで得られたものはそれだけではなかった。そこには、思いがけず大きな副産物があった。それは、東京の建築家は殆ど断熱には無頓着だった、ということである。

 建築家達の図面は、それこそデザイン的な部分は丹念に練り上げられ、充実した図面だったが、壁の中は、五十ミリ程度の裸のグラスウールが申し訳程度にただ挿入されているだけだった。これではすぐにずれ落ちてほとんど断熱の意味をなしてはいなかっただろう。しかし、それが逆に幸いして内部結露を起こさずに済んでいたのかも知れない。外部の建具もその家に合わせて設計し、ガラスもペアガラスなど用いてはいなかったから、気密性も断熱性もほとんど期待できない。東京では確かに冬場、死ぬほど寒くなる訳ではないから、それでいいのかも知れない。しかし、僕がこうして細部まで自分で図面を起こした大宮の家は、高断熱・高気密ではない最初で最後の作品となった。

 どんな商売でも同じだろうが、設計事務所は何か自分の強みを持っていなければいけない。他の事務所と差別化を図るということが大切なのだ。それを考えたとき、僕は折角、北海道で高断熱・高気密を学んだ(ことになっている)実績があるのだから、それを武器にしない手はない。冬の寒さを諦めていた夏の家を、夏、涼しく、冬、暖かい家にすること、東京の人にほんのちょっとの暖房だけで冬を快適に過ごせる家を提供しようと考えた。「開放的な高気密・高断熱住宅」から「大地に還る家」へと続く、僕の「木の家」づくりの始まりだった。

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