2009年4月18日土曜日

3-3.独立/初めての木造住宅


初めての木造住宅

 住宅を手掛ける設計事務所とはいったいどんなものなのか、という興味で本書を読み始めてしまった人にとっては、前置きがやけに長かったと感じるかも知れない。しかしそれは、住宅を設計する設計者の実像を見てもらうためにはどうしても必要なことだと考えてのことなので、どうぞお許し頂きたい。

 勿論、建築を設計している人達が皆、僕と同じ様な経験をして来ている訳ではない。高校を出てから工務店で木造を学び、そこから独立して設計事務所を始めた人もいるだろうし、大学を出てから住宅作家のアトリエで学び、独立した人もいるだろう。そういう人達なら木造住宅の仕事が入っても、手慣れたものだろう。しかし、僕は大学で建築を学び始めてから7〜8年経って、初めて木造住宅の設計というものを手掛けるのである。でも、大学を出て就職して建築の実務を学び、何年かして独立した人達のほとんどがそうなのだ。三十代くらいの若い設計者の殆どは木造の知識など全くと言っていいほど持ってはいないし、木造住宅の設計などした事がないのである。

 大学ではプランニングや空間のつくり方は学ぶが、それが木造であるか、鉄骨造であるか、鉄筋コンクリート造であるか、そんなことはあまり関係がない。木造がどんなサイズのどんな木を使って、どの様に組上げられるのか、木構造を専門に研究している先生でもいなければ、そんなことを学べる大学など殆どないのである。だから、高断熱・高気密住宅を研究していたゼミがあり、たまたまそんなゼミに在籍していたというのも珍しいことなのかもしれなかったが、僕はただ席を置いていた、と言ってしまえるくらい殆ど顔を出していなかったのである。だた、それでも、そんな設計者として皆と違っていた事がひとつだけあった。それは、高断熱・高気密住宅研究の第一人者を知っていた、ということである。

 僕は早速、妻の実家の新築のために、先生が開発した高断熱・高気密工法を習得している有能な工務店を紹介してもらった。それは新在来構法と呼ばれていたが、グラスウールによる充填断熱工法で、建て方の時に、「先張りシート」と呼ばれる気密シートを柱や梁の接合部に挟み込み、施工不良が問題となっていた気密シート張りを改善した構法で、日本の充填断熱工法の基本となった構法である。先生はこの構法のマニュアルをオープンにして、高断熱・高気密住宅の普及に勉めていたのである。そして、その先生の不肖の教え子は、この時はじめて高断熱・高気密住宅というものの実際の姿を知ったのである。

 僕は東京、妻の実家は北海道という遠隔地であったため、打ち合わせの殆どは電話で行っていたが、夏には帰省がてら模型を持参し、計画を進めて行った。基本のプランが固まると、木造の図面など描いた事がない僕は、工務店に必要な図面を描いてもらい、それをまたこちらでチェックし、予定よりも大幅に膨れ上がった金額を何とか認めてもらい、翌年、雪が消えるのを待って何とか着工に漕ぎ着けることができた。
 義父は、無口であったためか、打ち合わせに参加する事は殆どなく、設計の打ち合わせは殆ど義母と二人で行っていた。妻の実家は病院で、自宅も古い病院の建物の中にあったため、義母は「終の住処」として、長い間暖めていた自分の理想の家を、八百坪ほどあった病院の敷地の一角に実現したのだった。  

 しかし、勿論、何の支障もなく事が運んだ訳ではない。義理の息子と義理の母である、お互い遠慮がなかった訳ではない。しかし、三歩下がって云々という人ではなく、自分の主張ははっきり言う、この年齢ではあまり見かけない様な進歩的な義母だったので、営業トークなどできない設計者が当たった最初の住宅のお客さんとしては、とてもやり易いお客さんだったことは確かだ。

 木造二階建てのこの家は、亀の甲羅の様なプランに一階の軒まで末広がりに大屋根が架かっている。南北に降りる屋根の途中には十五世紀イタリアの建築家、パラディオが好んで用いた様な半丸のドーマーウィンドウが付き、屋根の頂部には二つの煙突に挟まれたハイサイドライトが設けてある。これはリビングの吹き抜けの上にある格天井から光を落とし、夏場の自然換気を担っている。古煉瓦調のタイルを貼った外観は、広い庭の緑に良く映え、個性のない田舎町に独特の雰囲気を持って建っていた。

 秋口の完成からひと冬を過ぎて、また夏になるまで、その出来上がった姿を僕は見る事ができなかったが、家中どこにいても温度差がなく暖かいこの家は、どんなにストーブを焚いても寒かった以前の家に比べ、ひと冬で消費した灯油の量は一気に1/5になったということだった。冬場はきっと東京にいるよりもずっと快適だったに違いない。

 初めて東京に暮らした時、夏のあの蒸し暑さと、底冷えする冬の寒さを経験し、東京の人は何て暑さ寒さに強いのだろう、と感心したものだった。
 かつての蝦夷地が北海道となって、文化はずっと北海道人が「内地」と呼んでいた本州の中央から入って来るものだったが、高断熱・高気密住宅の誕生は、北海道が初めて自ら文化を築き、中央に発信し始めたような、そんな気がしたものである。

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