2009年4月11日土曜日

1-3.修業時代/現場を知らなければ設計はできない

現場を知らなければ設計はできない

 実施設計という建築の実務を学んだ後は、現場監理である。図書館の仕事を終えて程なく、八王子にある大学の管理研究棟と図書館を建てる事になり、先輩所員と二人で担当する事になった。この時、初めて施主との打ち合わせに参加する事になる。入社して3年近くが過ぎた頃であった。

 施主と言っても、役所の担当者であったり、企業や、今回の様な大学の担当者は、それなりに施設建設に携わって来た人達で、素人ではない。専門用語を使ってもちゃんと話は通じるし、図面も読める。建築を知っている人が施主であると、やりづらいのではないかと思う人がいるかもしれないが、それは全く逆である。どんな仕事でも同じだろうが、普段仕事でなんの気無しに使っている言葉を、ひとつひとつ誰にでも分かり易い言葉に直すというのは、そう容易い事ではないし、図面を見ながら同じ空間をイメージできるというだけで、こんなにやり易い事はない。だから、大学との設計打ち合わせは、今思えば、相当楽な打ち合わせだったのだ。

 どんな経緯かは知る由もなかったが、恐ろしいほどの短期間で2つの建物をまとめあげなければならなかった。デザインをじっくり吟味する間もなく図面を仕上げなければならなかったが、僕は市立図書館を終わらせたばかりだったので、引き続き図書館を担当する事になり、先輩所員が監理研究棟を受け持つ事になった。

 しかし、どちらも同時に仕上げなければならない状況の中で、自分の受け持ちの分だけに目を向けていればいいということにはならない。管理研究棟は図書館より遥かに大きかったし、大学の本部が入る象徴的な意味を持つ建物だから、都内に残っている明治期の本館建物を彷彿させるデザインが求められていた。

 今ならパソコンでコンピューターグラフィクスなどを使って様々なデザインを効率よく検討する事ができるが、当時はまだ平行定規を使って図面を手書きしていた時代である。

 スケッチやパースを描きながら、一方では模型を刻み、デザインワークを突破して、図面をまとめてゆく。そして、どんな仕事でも同じ様に、締め切りがあれば、その締め切りに合わせて仕事は終わるのである。僕はこの2棟の建物と、引き続き計画されている工学部棟の現場常駐監理として、高尾山の麓まで2年間、毎日通う事となった。

 現場を見るのはこれが初めてだったから、現場監理というものがどういうものか何も分からずに放り出されたようなものだった。そう、誰も教えてはくれないのだから、自分で勉強するしかない。自分達でまとめた図面だから、基本は図面通りにできているかをチェックすることだが、住宅と違って大きな建物の場合、建設会社はその設計図を元に必ず施工図というものを起こす。

 施工図は、現場で実際に使用される施工のための図面で、現場監理者としてはまず、この施工図をチェックするという作業がある。設計の段階ではまだその建物が実際に建つのだ、という実感はないが、こうして施工図をチェックする段階になると、見落としがあったり、何か間違いがあるともう取り返しがつかないのだ、というプレッシャーが重くのしかかって来る。自分の設計した建物が現場で実際に造られてゆくのを目の当たりにするのは、設計者として勿論、嬉しいことではあるのだが、その責任の重さの方が遥かに大きい様な気がした。

 その他、現場ではやたらと書類が多いし、検査も多い。鉄筋コンクリート造の図書館は、配筋検査、型枠検査、コンクリート打設の立ち会い、というローテーションで各階が建ち上がってゆくが、管理研究棟は鉄骨鉄筋コンクリート造、即ち、鉄骨が柱梁の芯となってその廻りに鉄筋コンクリートが打ち込まれる造りであったので、工場まで鉄骨検査に行かなければならない。これは相当専門的な事なので、構造設計の担当者が同行する。大学側のスタッフも、立場上、同行する。

 建設会社の現場事務所の一隅に設計事務所の現場監理事務所が置かれていたが、大学にとっても今回は大きな工事だったので、大学の現場監理事務所も同じ屋根の下に入り、設計の打ち合わせに出ていたスタッフの多くが、引き続き現場担当者として常駐していた。

 僕がチェックした施工図や書類は、大学側の承認印が捺されて施工者側に戻される流れとなっていたので、僕は、毎日の様に大学の現場事務所に足を運び、図面や書類の内容説明をし、問題点について大学側の意見を聞いて、施工者側と調整を計る、という仕事に追われた。勿論、意匠担当の僕が、構造、設備、電気といった他の施工図や書類をひとりで見切れる訳ではない。毎週、現場定例会議が開かれ、その時に各担当の設計者が現場にやってきて、それらの図面、書類をチェックするのである。

 しかし、最終的にはそうした図面や書類がトータルに整合性が取れているか取りまとめるのは僕の仕事であり、5時になって現場の喧噪が嘘の様に静かな夕暮れを迎えた後も、一人残ってやらなければならない事は山ほどあった。

 それでも、事務所の中にいた時よりは自分のペースで仕事ができたし、行き帰りの電車は一般の通勤客とは逆方向だったので、往復2時間という通勤電車の中は、僕にとって一級建築士の試験勉強をするのに最も集中できる場所だった。現場常駐を命じられなかったら、きっとなかなか試験に合格などできなかっただろう。事務所の先輩達が「足の裏のご飯粒」と、よく言っていたのを思い出す。取らなくても別にどうってことはないが、取らないと何か気持ちが悪い。独立でも考えていなければ別に建築士の資格など持っていなくても仕事に支障がある訳ではないが、いつまでも取らないでいるのも落ち着かない、ということである。

 こうして現場は着々と進んで行ったが、そんな淡々とした日常は誰しも必ず気持ちの上でダレが出てくるものである。だからそんな日常を活性化させるための非日常的なイベントが必ず催される事になる。月に一回、定例会議の後に開かれる懇親会は、現場事務所の会議室を使って飲めや歌えやの大宴会となる。この時ばかりは施主も設計者も施工者も酒の力を借りて、普段、お互いに口に出さないそれぞれの思いをぶちまけるのである。そこには流石に下請けの職人さん達まで加わることはなかったが、夏にはバーベキュー大会、秋にはソフトボール大会が催され、職人さん達が大活躍した。

 現場には、それぞれ皆違う立場で仕事に従事している人達が集まっている。だから、当然、色々な不満もあるし、軋轢もある。しかし、皆に共通していることがひとつだけある。それは、この建物を造る為に集まっている、ということであり、ものづくりのプロとして、誰もが「良いものを造りたい」と思っている、ということである。日常に鬱積してゆく様々な不満は、そうした本来皆が持っている気持ちを失わせてしまう。だから、時にそうした負のエネルギーを発散させることが必要なのである。それは、こうした建設の現場に限らず、どんな会社であっても、人が集まって働いている以上、欠かせない事なのかも知れない。現場とは社会の縮図のようなものだった。

 こうして次の年も引き続き工学部棟の現場を見て、丸二年ぶりに本社事務所に戻り、小さな物件をひとつこなしてから、僕は事務所を辞めた。

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