2009年4月12日日曜日

2-1.ロングバケーション/花の都フィレンツェヘ


花の都フィレンツェへ

 僕がなぜ事務所を辞めて日本を飛び出したのか、人に聞かせて成る程、と思わせる上手い説明ができる訳ではない。当時は確かに、著名な建築家の元で数年修行をして、それからキャリアアップのため海外へ留学する、という人は多かった。最先端の建築を学べるのはやはりアメリカだったから、事務所の先輩達も次々とアメリカへ飛び立っていた。しかし、自分がそれほど野心や向学心が旺盛だったか、と言えば、何か違う様な気がする。それも、アメリカではなくイタリアへ行く、というのは、建築史でも専門にやっている大学の研究者でもなければ、結構珍しいことだった。勿論、突然思い立ったことではない。それは、北海道の事務所にいた頃見た一枚の写真が発端だったかもしれない。大聖堂を中心に赤い瓦の屋根が埋め尽くすフィレンツェの町並みを撮った航空写真だった。それは、まさにタイムスリップした様な光景であり、中世をそのまま残した街で人々はどの様に暮らしているのだろう、という興味を大いにかき立てられた。

 ポスト・モダンが盛んに叫ばれていても、それが何か新しい様式を生み出す力にはならず、闇の中に手を差し出す様に後に来る建築を模索していた時代だったから、より新しい建築に触れ、次の時代をカタチにすることは、建築をやっている人間にとっては最も重要なテーマだった。だから皆、アメリカを目指してゆくのだが、僕は逆に何かもっと本質的なものに触れてみたい、という欲求の方が強かったのかも知れない。勿論、アメリカに行けば、新しい建築理論や技術は学べるかも知れない。しかし、新しい名建築を見たければ、ガイドブックを片手に旅行すれば済む事である。しかし、何百年、否、千年に及ぶ町並みを理解する為には、短時間旅行しただけでは無理に違いない。そこに住み、そこに暮らす人達と触れ合い、彼らと同じものを食べることで初めて見えて来るものがあるのではないか、そんな漠然とした思いのまま僕はフィレンツェという街に暮らし始めたのだった。強い日差しが肌を刺す7月の初めのことだった。

 大学の新学期が始まる十一月まで少しでもイタリア語を学んでおく必要があったから、出発前に日本から現地の語学学校への申し込みをし、宿泊先も斡旋してもらっていたので、ローマから特急に乗りフィレンツェのサンタ・マリア・ノッベッラ駅に着いた僕は、重い荷物をタクシーに乗せ、運転手に住所を告げると、運転手は迷う事無く真っすぐその住所まで僕を運んでくれた。

 西欧では、それぞれの通りの端から建物の入り口に番号がふられている。片側が偶数番号なら、通りの反対側は奇数番号となる。だから、通り名とその番号が住所ということになる。ホテルの客室もこれに習っている訳だが、ここでは日本の様に土地に住所が付いている訳ではないのだ。そして、タクシーの運転手になるには、街の通り名を総て覚えていなければならない。そんな話は日本にいた時に何かの本で読んで知ってはいたが、それは間違いではなかった様だ。

 こうして僕は、アルノ河を渡り、サント・スピリト教会にほど近い旧市街の中にとりあえずの住処を確保した。ダイニングキッチンは決して広くはなかったが、ベッドルームはゆったりとして、おまけにシャワールームが無闇に広い、そんな部屋だった。驚いたのは、自分の部屋に入るために3つの鍵が必要だったことだ。まず、通りから表玄関を開ける鍵、そして、僕の部屋は3階にあったので、階段で3階まで上がり、3階の住戸3戸の共用のホールに入るための鍵、そこから自分の部屋に入るための鍵である。否、イタリアでは一階は昔から作業場、工房、商店、倉庫といった非住居系の用途に使われていたので、地階という言い方をする。だからイタリア式に言えば、僕の部屋は二階ということになる。さて、扉はいずれもホテルの様に自動ロックになっているので、鍵を持たずに部屋を出ると、締め出されてしまうことになる。東洋からやってきた人なら一度は苦い経験をするだろう。

 大家さんの話では、十四世紀に建てられた建物だと言う。六百年以上に渡って改装を繰り返しながら使っているのである。旧市街の建物は皆そうなのだ。
 窓には皆、グリーンにペンキを塗られた両開きの鎧戸が付いていて、これを外側に開く。街中の鎧戸がグリーンなのだから、きっとルネサンス時代からそうなのだろう。そして、両開きのガラス窓は部屋内側に開く。そう言えば、玄関の扉も総て内側に開く。これは、日本とは逆である。ある著名な住宅作家が、玄関扉は人を招き入れるのだから内側に開くのだ、と言っていたが、そうではない。通りに面している扉が外側に開いては、通行人に対して危険だから内側に開くのである。それが伝統になっているのだ。窓については、外側に開くとガラスの清掃ができないから、内側に開くのである。

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