2009年4月16日木曜日

3-1.独立/夢のリゾート計画


夢のリゾート計画

 帰国したばかりの僕が目の当たりにしたのは、バブルと呼ばれたかつてない好景気の日本だった。ほとんど無一文になって帰国して、北海道の田舎に籠っていた僕が、のんびりと次のステップについて考える余裕もなく東京での生活を始める様になったのは、ある大手設計事務所の知人からの「すぐに出て来い!」という一言がきっかけだった。僕は取る物も取り敢えず上京し、市ヶ谷に本社ビルを構えるその事務所で働き始めた。

 仕事は山の様にあった。最初は、役員達が席を連ねる営業部門の片隅に席を貰い、仕事になるのかどうか分からない案件のボリュームチェックや、施主説明用の簡単な計画案をひとりで作っていたが、一月ほどで設計部のひとつに廻され、商業ビルを一件任された。社員として入った訳ではない。時給いくらのバイトである。でも、社員では消化できないくらいの仕事があり、ビルひとつまとめあげるキャリアを持った人材が極端に不足していたから、即戦力となる人間がひとりでも必要だったのだ。売り手市場だったので、僕は一年でお金を貯めて都内で自分の事務所を開くことができた。その事務所からは入社の誘いを受けていたが、もう何処かに就職しようという気はなかった。と言って、周到に独立準備を進めていた訳でもない。独立すれば自然と仕事が入り、自分の建築が造れるのだ、と単純に考えていた。バブルがいつまでも続くと思っていた。

 バイト先の事務所で、やはり何処からか派遣されて来ていた腕の立つ若い女の子をひとり引き抜いて独立した僕に、その事務所は独立祝いとして、ある信用金庫の本店の設計を任せてくれた。太っ腹な時代だった。一万坪に及ぶ配送センターの計画も引き続き任されていたから、独立しても暫くは大手事務所の下請け仕事に追われていたことになる。

 しかし、ある時、シンガポールに一大リゾートを計画する話が持ち上がり、僕はある企業のオーナーを紹介された。主に健康食品の販売を行っていた会社だったが、不動産も各地に所有し運用していた。会社の社長という人にそうあった事はなかったが、紹介されたその人は典型的なワンマン社長で、役員であっても社長に異議を唱えることのできる雰囲気の会社ではなかった。だから今回の計画も社長がひとりで進めていることだった。

 シンガポールの沖合にビンタン島というインドネシア領の島がある。そこをインドネシアとシンガポールが共同でリゾート開発する計画があり、島を区画分譲していた。その一区画、三百三十ヘクタールの敷地に2つのゴルフコースを入れたリゾートのマスタープランを作って欲しいと言うことだった。僕は早速、シンガポールに飛び、リゾート開発を担当していた政府企業の担当者に会い、敷地を案内してもらうことになった。二日間による視察である。一日目は、シンガポール空軍の飛行場からヘリで島の上空からの視察、二日目は、フェリーでビンタン島の隣にある島へ渡り、そこからモーターボートで島に上陸する。高層ビルの建ち並ぶ未来都市のようなシンガポールの眼と鼻の先に、灼熱の太陽が真上から照らす未開の楽園があった。

 日本に戻ると僕は、当時、他の事務所をやめて押し掛けて来ていた所員と二人で、早速、島の敷地模型を造り、マスタープラン作成のための作業に取りかかった。総事業費を大雑把に見積もっても三百億円に及ぶ壮大なプロジェクトだった。そう、この事業が順調に進んでいれば、シンガポールにも事務所を構えなければならなかったし、バブルが弾けなければ、毎年、南の島でバカンスを過ごす、そんな優雅な生活を送っていたのかも知れない。

 僕らは、マスタープランを持ってシンガポール政府企業の担当者にプレゼンテーションし、先方の好感触を得て、プロジェクトは上手く進んで行くものと楽観視していた。国内の景気に少し陰りが見えて来ていたから、日本の銀行からの融資を引き出すのは難しくなるかも知れないと踏んで、外資に目を向けていたオーナーだったが、結局は必要となる最低限の資金を調達することもできなかったのである。夢は夢のまま終わったのだった。それでも、まだ僕らの必要経費を支払って貰えたのだから、大きく膨らませた風船が一気に破裂したようなショックはあっても、実質的なダメージを被った訳ではなかった。バブルの崩壊はまだ始まったばかりだった。

 その後も、このワンマン社長から様々な仕事の依頼を受けたが、実際に実現したものは未だにひとつもない。ビンタンビーチリゾートの計画が頓挫した後、ずっと以前から福島で計画していたゴルフ場の開発許可がやっと下りた、ということで、ゴルフ場全体のマスタープランからクラブハウス、その他付随するショッピング施設などの計画を行ったが、やはり銀行頼みのプロジェクトは一歩も先へは進まなかった。突然、電話で「明日、サイパンに行くから、○○時に空港で会おう」と言われて、一緒にサイパンに飛び、あるゴルフ場脇の敷地にどんな施設を造ればいいか提案を求められたり、丁度、駅前の土地を所有していた相模大野の再開発がらみで、大手の設計事務所を出し抜く様な計画案を求められたり、求められる事は皆、独立したばかりの小さな設計事務所にとっては刺激的な魅力を持つものばかりだったので、どんなにうさん臭い話であっても、断る勇気を持てないままずるずると付き合っていたが、設計料の支払いはどんどんうやむやになっていった。
 しかし、それから10年余りに渡って、僕はその社長と共に、ある時はサイパンに、そしてまたある時はフランスに飛び、実現する事のない計画案作りをすることになるのである。

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