2009年4月13日月曜日

2-2.ロングバケーション/イタリア人は街に住んでいる


イタリア人は街に住んでいる

 僕は、早速、サン・ロレンツオ教会近くにあった語学学校に登録を済ませ、毎日、イタリア語漬けの生活が始まった。少し遠回りにはなったが、毎朝、サント・スピリト教会の脇を通り、宝石店の建ち並ぶベッキオ橋を渡り、ウフィッツィ美術館の回廊を抜け、ミケランジェロのダビデ像のレプリカが立つシニョーリア広場を横断し、美しい尖塔の立つドーモ(大聖堂)を横目に学校へ通った。フィレンツェは元々ローマ起源の街なので、中心街の道路は整然とした碁盤の目の形をしている。そして、そこから放射状に道が広がっていた。

 夏休みに入る頃だったので、語学学校は生徒の殆どが近隣諸国からやってきた若者達で溢れていた。フランスやスペインといった同じラテン語圏の人なら、あえて語学学校に来る必要もないくらい簡単にイタリア語をマスターしていたが、ゲルマン系のドイツ人やオーストリア人だって、多少まごついてはいても、同じ横文字である。どんなに頑張ってもやはり、言語のまるで違う日本人がいつでも劣等生だった。日本で多少ともイタリア語を学を学んで来た積もりだったが、やはり言葉はその土地に放り出されてどっぷり浸からなければ、身にならないのかもしれない。

 毎日、朝から夕方までイタリア語漬けになり、帰ってからも宿題に追われ、一月もしない内にイタリア語で夢を見た。勿論、一ヶ月でマスターしたなどという話ではない。しかし、ひとつの壁は越えた様な気がした。それまでは、相手の話す言葉を頭の中で一度日本語に翻訳し、自分が話そうとする時にもやはり日本語をイタリア語に変換してからやっと言葉になる、という感じだったのが、相手のイタリア語をそのまま理解し、イタリア語で返す、ということが少しできるようになったのである。確かにそうならなければ、会話にはならないのである。それでも結局,僕のイタリア語はものにならなかったし、帰国してイタリア語を使う機会など全くなくなってしまうと、すぐに忘れてしまうのだが。確かにそれも残念なことではあるのだが、僕は別にイタリア語をマスターするために来た訳ではないのだ。

 僕は休みになると、兎に角、フィレンツェの街を歩き回った。フィレンツェの歴史的な遺構はほとんど旧市街の歩いて廻れる範囲にあったし、歩くのに丁度良いスケールの街なのである。ルネサンス期前後に建てられた市中の教会はどれも皆、個性的で独特の雰囲気を持っていたし、珠玉の様な絵画や彫刻で飾られていた。ウフィッツィ美術館は何度行ったか分からない。最初に入った時は、「これはとても敵わない」と思った。展示されている絵の殆どが中世絵画である。即ち、キリスト教絵画だから、聖書の世界が分からないとそこに描かれているものが何なのか、何も分からないのだ。流石にイタリア語の聖書を読むだけの力はなかったので、僕はすぐに日本から聖書を送ってもらった。そして、何度も足を運ぶうちに、僕にとって中世は決して暗黒時代ではなくなっていたのである。これは確かに旅行で一度訪れただけでは決して掴む事のできない経験だった。

 ここでの生活でまず一番困ったのは、シェスタの時間である。朝、買い物をし忘れると、夕方まで待たなくてはならないのだ。日差しの強い日中は、街は不思議なくらい静かになる。店の多くが朝早くから開いているが、お昼前の十一時頃に閉まり、夕方五時頃になって漸くまた開くのである。昼寝の習慣のない僕が、このペースに慣れるには、予想外の時間が必要だった。

 さて、ここでは、夜になると何処からともなく人が沸いて来て市中を練り歩いている。レストランやバー、映画館、遊戯施設などは遅くまで営業しているが、普通の店はとっくに閉まっている。見ていると、皆、何処か目的地があって、そこに向かって歩いているのではない。ウインドウショッピングをしたり、広場で必ずやっている大道芸人の見せ物を見たりしながら、家族や友人同士でおしゃべりをして、ただ歩いているのである。そう、確かに夜の街はそれだけで楽しいのだ。

 夏休みの時期に入っていたから、観光客相手の店以外は、次々と店仕舞をし、バカンスに行ってしまう。語学学校の通り道にあった果物屋は、店頭に大量の果物を残したまま、それが皆朽ち果てるまで丸一月の間、シャッターが開かなかった。しかし、街の住人がいなくなった以上に観光客が押し寄せていたから、街は相変わらず賑やかで、様々なイベントが催されていた。街を眼下に見下ろすベルベデーレ要塞では毎晩、野外映画が催されていたし、巷ある広場という広場でも見事な仮設会場を作り、音楽会などが開かれていた。家のすぐそばのサント・スピリト教会の中庭では、新作オペラが催され、僕も、日本にいた時にイタリア語学校で一緒になり、丁度フィエゾレの音楽学校で学んでいた芸大生(現在作曲家・ピアニストとして活躍している日野原秀彦氏)と一緒に見に行ったりした。こうした小さなイベントを観光客はほとんど知らないから、観客はほとんど地元の人達である。席が隣り合わせになったご夫人が「毎年、楽しみにしているの」と微笑んでいたのを今でも覚えている。

 僕は街がこんなに楽しいものだ、と感じた事はなかった。夜になると何処からともなく溢れ出して来る人々、ルネサンス時代から変わらない街の、既存の古い施設を巧みに使って催される様々なイベント、ここに暮らしている人達は、家に住んでいるのではない、街に住んでいるのだ。「家は小さな都市であり、都市は大きな家である」というイタリアルネサンスの建築家アルベルティの言葉はまさしく格言である。

0 件のコメント:

コメントを投稿