2009年5月11日月曜日

9-2.木造レンガ積みの家/知らなかった釘の盲点


知らなかった釘の盲点

 Yさんが家の建て替えを思い立ったのは、廊下の床板の一部が抜けてしまったのがきっかけだった。床を剥がして中を覗いてみると根太を留めていた釘がボロボロに錆び付いて折れていた。それを見て、木造住宅はおよそ釘で留められてできているのだから、まず、錆びない丈夫な釘で造らなければダメだ、とその時思ったそうである。

 そんな話しを聞いて、確かに僕自身、釘についてこれまであまり考えた事がなかったことに気付かされた。しかし、釘について書かれた文献は非常に少なく、昔の「和釘」についてなら建築史家がその著書の中で触れているものがあるが、現在一般に使用されている釘について調べようと思っても殆ど情報が得られない。唯一、エクスナレッジという建築関係の出版社から「釘が危ない」という本が出ていたので中を覗いてみると、なかなか興味深い話しが載っていた。

 一般に構造用合板を木造住宅の耐力面材として使用する時には、N50釘を150以内のピッチで留めなければならないとされている。しかし、N50釘という釘は関東では殆ど売っていないというのである。それで、早速、近所のホームセンターに行ってN50釘があるかどうか確認してみると、確かにN50釘は売られていなかったのである。では、実際にはどんな釘が使われているのかというと、FN50釘という梱包用の釘が使われているらしい。FN50釘はN50釘よりも径が細く、釘頭も小さい。明らかに強度の劣る釘が使用されているのである。
 さらに、今の大工さんは昔の様に釘を口にくわえて一本一本金槌で打つ訳ではない。釘打機を使って一気に打ってゆく。圧力が弱いと釘頭が出てしまうので、通常、圧力を高めて打つらしいが、釘頭の小さいFN50釘では容易にその釘頭がボードの中にめり込んでしまう。そうなると、面剛性を確保しようとする時に、さらにその強度を弱めてしまう事になる。こうした釘についての盲点は、この時はじめて知った事だった。このように、建築主からプロであるはずの設計者が教えられ、勉強になる事は度々ある。

 自らも釘について色々調べていたYさんが、今度、釘のメーカーに話しを聞きに行くことになったので一緒に行かないか、と誘いの電話をかけてきた。安田工業というその会社は安田財閥の創始者、安田善次郎が、東洋で初の製釘事業として起業したという歴史のある会社であったが、その割には本社は神田のこじんまりとしたビルのワンフロアにあった。

 Yさんと僕は竹橋の駅で待ち合わせて、約束の時間に訪れると、ミーティングルームのような什器が揃った部屋に通され、そこで会社の説明や先に述べた様な現在使われている釘の問題点についてブリーフィングを受け、当社が作っているスーパーLL釘というステンレス釘を紹介してもらった。

 スクリュー釘の様に螺旋の溝が付いた釘で、螺旋の溝と溝の間に滑り止めの刻みが入っており、驚いたのは、径はN50釘とあまり変わらないが、直径で倍近い大きな釘頭が付いていた。これなら打ち込んでも抜け難く、釘打機で強く打っても釘頭はまず木材の中にめり込む心配はなさそうだった。ステンレスなので錆びについての問題は格段に少ないし、強度的にもN50釘の比ではなさそうだった。

 Yさんは家の建て替えの動機が「釘」であったため、やっと理想の釘に出会えた思いだったのかもしれない。一般に釘は大工さんの日当に含まれているのが慣例だから、値段の高い釘を大工さんに指定するのは酷だと思ったのだろう。Yさんは新しい家に使う釘を総て自分で購入し、現場に支給することにした。高い釘と言っても家一軒分を用意したところでその差額は5万円くらいなものである。木造住宅にはいい釘を使わなければ、という強い想いからすれば何て事は無い。

 長年、釘を売ってきた安田工業の担当者にとっても、特に業者でもない一般の人がこれ程釘に関心を持ってくれたことが嬉しかったのかも知れない。このスーパーLL釘は、普通の釘より釘頭が大きいため一般の釘打機が使えず、この釘を使うには専用の釘打機を買わなければならないところを、Yさんの熱意に動かされて、現場が始まったらその専用の釘打ち機を貸してくれることになった。こうしてYさんの家づくりは「釘」を見つける事から始まったのだった。

(写真 左:FN50釘、中:N50釘、右:スーパーLL釘)


参考文献:木構造建築研究所 田原HP
「釘が危ない!」(エクスナレッジ)保坂貴司

2009年5月10日日曜日

9-1.木造レンガ積みの家/施主のおしゃべりは大歓迎?

施主のおしゃべりは大歓迎?

 僕の本が出てから2年くらい過ぎた頃だったと思う。僕が本の最後のページで紹介していた「木造レンガ積みの家」を建てたい、というお客さんが現れた。そこに書いのは、ある工務店の事例として取り上げたものだったが、ぜひ僕に設計を依頼したいという。世間の常識から言えば、「その工務店を教えて下さい」と情報だけを得ようとするものだが、定年を過ぎた白髪まじりのこの施主は違った。

 最初にメールで打診を受けた僕は、兎に角,一度お会いしてお話を伺いたいと返答し、僕らはお互いの中間点となる地下鉄の駅側の喫茶店で待ち合わせた。Yさんは横浜市に住んでいて、元々土木関係のコンサルタント会社のエンジニアだったが、定年後、土質工学の専門家としての腕を見込まれ、今の会社で若い社員を指導しているとのことだった。彼自身、土木ではあるが設計の仕事に従事していたので、設計の重要性を良く理解している人だった。従って、自分の住宅を考える時も設計事務所に設計監理を依頼する、というのは彼の中では至極当然のことだったのである。

 Yさんは技術屋なので建築については門外漢であっても、自ら熱心に勉強し、とことん疑問点を追求してゆく、という技術屋魂みたいなものを持った人だった。だから、設計者にもそれ相当の知識と技量を求めていた。

 僕の本を読んで問い合わせをして来るお客さんの多くは「断熱マニア」と呼んでいいような人達が多かった。こういう人達は、断熱材や断熱工法に詳しく、一番良い断熱工法は何か、というようなことばかりに目が向いていて、それさえ見つければそれでいい家が建つと思っている様な人達で、こうしたマニアの人達の殆どが家づくりに失敗しているように見えた。断熱マニアは普通の設計者よりもずっと断熱についての知識が豊富なため、「専門家のくせにどうしてこんなことも知らないのか?」と、設計者に対して不信感を抱くようになってしまう。一度、そうなると他のどんなことでも単純には信用できない、という気持ちになり、家づくりにとって一番大切な設計者との信頼関係を築けなくなってしまうのである。

 どんな断熱材を使って、どんな工法を用いようと、設計者の設計力がなければそれが活かされないということを彼らは知らなかった。家をトータルに見る事ができなければ決していい家にはならない、ということを彼らは理解していない様だった。いい家を造りたいと思って勉強したことが返って仇になってしまうのである。

 しかし、Yさんはそんなマニアとはちょっと違っていた。まず、「大事なものは目に見えない」ということをよく知っている人だった。見えないものとは、例えば、地盤、構造、木の無垢材の乾燥、断熱、換気といったものである。その上で百年持ち堪えられる最良の素材を求めていた。だから、木造でありながらレンガを積む、という家に大きな魅力を感じたのだろうと思う。

 Yさんの家は築三十年になる古家だった。子供たちはとっくに独立し、奥さんも年金が貰える歳になって乳がんで亡くされ、今はそこに一人で暮らしていた。敷地は急傾斜の市道に面してひな壇に造成された土地で、斜面下の部分は宅盤の下をくり抜いてカーポートを自ら造成していた。隣地の石積み擁壁が古く神奈川県の崖地条例に抵触するため、建て替え時に何らかの対策が必要であると思われたが、道路を挟んだ南側は昔の城跡として保存緑地となっており、市中でありながら緑に恵まれた環境だった。

 Yさんは、男でありながら,兎に角、おしゃべりな人だった。僕が設計した家を一度見てみたい、と言うので、一軒の家を案内したことがあった。Yさんと東船橋で待ち合わせ、そこから車で三十分位のところにある夫婦二人暮らしの家に案内した。設計事務所にとって、お客さんに自分がどんな家を設計するのか,具体的に分かってもらうためには、自分が設計した家を実際に見てもらうのが一番良い。しかし、住宅というのはプライベートなものであるし、人がくれば奇麗に掃除をしておかなくてはならない、という気を使わせてしまうことになるので、設計者であってもなかなか気軽にお願いできる訳ではない。だから、見学者を喜んで受け入れてくれる家というのは、極めて稀でありがたい存在と言える。

 まだ四十に入ったばかりの夫婦の家は、僕自身が設計した住宅の中でも色々説明する材料に事欠かない家だったが、Yさんは、車の中でもそうだった様に、ひたすら身の上話や自分自身の家に対する思いに花を咲かせ、現地に到着してからも殆ど見学すべき家を見ていなかった。僕はやっと相槌を打つことができるくらいで、ただただYさんの思いを受け止めることだけに終始していた。折角自分の自信作のひとつを紹介できると意気込んでいた身にとってはいささか食傷気味だったが、それはそれで構わない。世の中には色々な人がいる訳で、自分がどんな家を望んでいるのか、それをきちんと表現できる人の方が少ないのだ。それに比べたらとことんおしゃべりをしてくれる人の方が設計をする上での情報量が圧倒的に多いのだから、むしろ歓迎すべき事なのである。

 Yさんは、今の古家を取り壊して、息子家族との二世帯住宅にしたい、という希望を持っていた。それを何故レンガ積みなのか、というと、孫に残してやりたいという思いがあるからだった。だから、百年は保つ長寿命住宅でなければならない。そんな事例は他にもあった。若い世代よりも、ある程度ゆとりのある老夫婦が長寿命住宅を求めるのである。自分達が死んでしまった後に自分達が生きていた証しを残しておきたい、自分達がいなくなった後もその子孫のために役に立ちたい、歳を取るとそんな想いが強くなるのかもしれない。
 木造レンガ積みの家は、Yさんにとってそんな想いを叶えられる家だったのだ。

2009年5月9日土曜日

8-4.コラボレイション/デザインとはマジックである



デザインとはマジックである

 長野の小さな村の縄文土器を展示する資料館は、K君と共に、縄文土器を飾った展示ケースでカーテンウォールのファサードを造る、という大胆な提案を試みたが、却下され、基本設計としてプランをまとめ上げるのに予定外の時間を通やすことになった。この計画は,当初からスケジュールが立たず、それが明確になった時にはすでに無謀な設計工程を求められていた。そして、この計画はやっと基本設計のまとめの目処が立ったところでストップしてしまった。村から、設計工程が守られていない旨の申し出があり、受注していたコンサルタント会社が一方的に契約を打ち切られてしまったのである。

 後で分かったことだが、村長が地元の設計事務所にこの仕事を廻したのである。そして、村長は程なく贈収賄容疑で捕まることになった。お陰で僕らは約半年の間、無償で働いたことになる。

 遠隔地であるため、K君に敷地を見てもらうための交通費を工面する事もできず、僕は元請けのコンサルタント会社の社長と共に、先方の役所の担当者との打ち合わせに合わせて、朝一番の飛行機に乗って何度か現地を訪れた。岡山空港に入り、岡山駅から電車で瀬戸内海を渡って、香川県の丸亀の駅で借りたレンタカーで現地に入り、午前中の内に計画敷地を視察し、道端のうどん屋で讃岐うどんを食べて、昼一番の役所との打ち合わせに出席する、という強行軍である。こうした遺跡の現場は便利な町の中にはないから、いつも車は欠かせなかった。

 この計画もやはり完成まで町の予算に合わせて毎年少しずつ進めて、展示工事まで終えてオープンに漕ぎ着けるまで5年を要するスケジュールで、工事着工の予定はその時点では明確ではなかったが、実施設計はその年度中に仕上げなければならなかった。

 K君は施設を3つのブロックに分けた僕のスケッチを元に、具体的なデザイン検討に入っていたが、より新しいアイデアを盛り込むことに力を入れる基本設計と、それを如何に具体的に実現するか、ということを考えなければならない実施設計ではまた違う設計の醍醐味がある。例えば、僕は国道から見える施設のアプローチ面にコンクリートの長い壁面をつくり、その壁面をどうデザインするか、K君にいいアイデアを求めていたが、K君はその壁面に三十度の角度で均等に丸い穴を空けるというデザインを考えていた。即ち、コンクリートの表面は楕円形になるということだが、それだけ鋭角でコンクリート壁に孔を空けると、薄くなる部分が欠けてしまい決して奇麗な楕円にはならないことが目に見えていた。普通ならそのようなデザインは無理だということで諦めるところである。

 しかし、建築を設計する面白さというのは、実はマジシャンのように、人を如何に不思議がらせるか、というところにある。常識的には無理だと思われることをいかにして可能にするか、マジックを考えることがひとつの新しい表現性に繋がってゆくのである。僕らは斜めに切断した鋼管を型枠の中にセットし、コンクリートの中に打ち込んでしまうことで、このデザインを可能にした。

 さらに、沢山の丸い穴が斜めに穿たれたこのコンクリートの壁は屋根の部分で、逆L形に片持ちのスラブが普通なら支え切れない長さで飛び出している。これは、背後にもやはり逆L形の壁、スラブが高さを変えて噛み合う様に配置されていて、その間に空間を作っているのだが、屋根の部分で噛み合った隙間に設けられたハイサイドライトのサッシ部分に隠されたスチールのフラットバーで、上のスラブから下のスラブを吊っているのである。

 K君とのコラボレイションで実施設計を終えたこの小さなガイダンス施設には、そうしたマジックがちりばめられていた。この様に、設計者が設計を純粋に楽しめる機会は何にも変え難いものである。

 あとはお互い生活のための収入を何処かで工面しなければならない、という現実が待ち構えてはいたが、

2009年5月8日金曜日

8-3.コラボレイション/アイデアを出し合って、自分の殻を打ち破る


アイデアを出し合って、自分の殻を打ち破る

 僕はかつて美術館や博物館といった建物の設計を得意としていた事務所に勤めていたので、時々、そんな物件が舞い込んで来た。そうした建物の多くは公共建築物であり、地方自治体に設計の指名願いを出していなければ正式に入って来るような仕事では勿論無い。そうした建物の中の展示計画をしたり、あるいは文化財専門のコンサルタントをしている会社が、自分達の仕事をしている中で建物自体の設計監理も受注してしまうことがあるのだ。

 こうした会社では建築設計の仕事など全くしていなくても社員に一級建築士の資格を持つ者がいれば一級建築士事務所登録をしている場合が多く、元請けとなって設計自体は総て外注に出してしまうのである。美術館や博物館の設計にはやはりそれなりのノウハウがあり、そうした物件の実績のある設計事務所は大抵、大手か名の知れた建築家の事務所ということになるが、そういう所に頼むと高い設計料を払わなければならない。そこで、一応、そんな実績のある事務所から独立して細々とやっている僕の様なところに話しが舞い込んで来るのである。多くは地方の埋蔵文化財の発掘現場に建てる小さな博物館施設である。

 下請け仕事はできるだけ避けて通りたいと思うのは誰しも同じだが、何の宛もコネもなく独立した身にとって、こんな設計者冥利に尽きる仕事ができる機会はそうあるものではない。それに、元請けの会社自体は全く建築には不慣れなので、デザインを含め、基本設計から実施設計まで、あるいは現場監理までお任せ状態になるのだから、多少,設計料が安くてもこれは断れない。

 そんな話しで最初に実現したのは、群馬県の山の中に造った全国の郷土玩具を集めた小さな博物館だった。幾何学的なプランの中に展示室を納め、外周廻りは鉄筋コンクリートの壁を一層建ち上げ、ふたつの芯となる部分に設けた矢倉からプランに添って幾何学的な木造の屋根を掛けている。背景の山並みに合わせた屋根の形状は、独特の雰囲気を放ちながら緑の中に溶け込んでいた。五百平米くらいの小さな博物館だが、住宅から比べれば遥かに大きい。それでも自分一人で図面を描き切る事のできるスケールであり、その空間はイメージと現実とのズレは全くない。西欧的な重厚な壁の上に無垢の木をふんだんに使った日本的な小屋組が乗った美しい空間に仕上がった。設計者として自らの名を冠した建物にはならないが、例えそうであっても、こういう魅力的な仕事はそうあるものではない。

 文化施設の展示計画も行なう大手事務機メーカーからも、そうした地方の小さな博物館施設の計画案やコンペ案の作成を頼まれたこともある。この手の仕事は、実現しないことも多いのだが、企業からの依頼による仕事は計画案を作るだけでも設計料をきちんと支払って貰う事ができたので、安心して取り組める仕事ではあった。しかし、こうした仕事の多くは決して大きくはない会社からの依頼であり、魅力的な仕事ではあっても、金銭面では相当キツい条件を飲まされる場合も珍しくはなかった。

 K君の断熱コンサルタントをしている時に、ある文化財コンサルタントをしている小さな会社から、立て続けに3つの案件を頼まれていた。ひとつは房総半島にある縄文期の墳墓跡、2つ目は長野の縄文土器、3つ目は四国にある平安期の瓦窯跡、それぞれの史跡に造られるガイダンス施設である。

 最初に始まった房総半島の物件については、初年度は基本設計までだったので、自分一人でも充分こなせる仕事ではあったが、僕はあえてK君に「手伝ってもらえないか?」と声を掛けた。設計という仕事は、ただ一人の創造性によって生み出すことのできるものではあるが、何か新たな表現性を求めようとする時には、ちっぽけな一人の頭では限界がある。自分の発想と、自分には無い発想をぶつけ合うことで、より高い次元の表現性を追求できるのではないか、そんな想いを感じていた時に、K君は絶好のパートナーとなってくれるような気がしたのである。

 彼は快くこの申し出を受けてくれた。僕らは房総半島の内陸部の人里離れた山中に墳墓跡を訪ね、その施設が建てられる敷地を探索し、まず、基本設計の初期段階として、それぞれラフスケッチを起こす作業に取りかかった。こうした施設の機能は比較的単純で、エントランス、受付、事務室、展示室、セミナー室、それに閉館時でも使用できるトイレ、それらを有機的に構成することである。敷地も広く、特に意気込まなくても、誰でもプランくらい簡単に作れそうなものだが、逆に言えば、如何にして魅力的な施設にするか、と考え始めると、これだ、というものに辿り着くまで膨大な量のスケッチを書かなくてはならない。そうした作業をひとりでやっていると、どんどん自分の世界の中に埋没してゆくことになり、視野がどんどん狭くなって行ってしまう。そうなってしまうともうアイデアに広がりがなくなり新鮮な表現性が損なわれてしまう。そんな時には、それを客観的に見る眼が必要であり、ちょっとした他者のサゼッションが、問題解決の糸口になったりするのである。

 僕らはお互いにラフスケッチを見せ合い、お互いに批評し合い、何度もそれを繰り返しながら少しずつひとつの方向性を見出してゆく。

 考えてみれば、僕とK君は一世代違う年齢である。普通なら僕がリーダーシップを取って彼が僕の方針に従って作業を進めてゆく、という関係になるのが普通かもしれない。しかし、そうした上下関係があっては彼のアイデアを十二分に引き出すことはできない。対等に意見を出し合う、という関係を保ってこそコラボレイションの意味があるのだ。

 僕らは、受注者の求めに応じて基本計画書にまとめる計画案を3案作ったが、自分達が薦める案は一案だけだった。二股に分かれた枝のようなプランで、僕らは二人とも、自分一人では決してこんなプランは作り得なかっただろう、と思える自信作だった。二人にとっては素晴らしい案を造り上げることができたコラボレイションだったのである。しかし、こんなプラン、こんな建物を誰も見たことはないだろうから、この案を採用することに誰もが二の足を踏んでしまう可能性はあった。事実、受注者自身もこの案はちょっと過激すぎる、という印象を持った様だった。

 こうした文化財に関する事業は文化庁から補助金を貰って地方自治体(この場合は町だが)が行なうもので、基本設計を終えた時点で、町の委員会の承認を得なければならない。受注者と共に建築の設計担当として僕は委員会に出席を許され、これら3案についての説明を行なったが、委員会では今後どの案で進めるか決めようという話しになり、一案は全員の合意のもと選から外れることになったが、態勢としては僕らの自信作ではない四角い大人しい案の方を薦める声が圧倒的に多かった。しかし、これではとても無理かな、と覚悟を決めていた時だった。メンバーの中では一番若く、ただひとり、文化庁から出向いていた委員が、僕らの自信作を高く評価し、

「今、急いで一案に絞る必要は無いのではないか?」と、その場での決着を留保する様、進言してくれたのである。

 こうした事業は、計画の立案から竣工、オープンまで以外と長い年月がかかってしまう。今年は基本設計、来年は実施設計、次の年は躯体工事まで、その次の年は内装・外装を仕上げ、そのまた次の年は展示工事をやって、やっとオープンに漕ぎ着ける、という具合に、町の毎年の予算取りに合わせて少しずつできてゆくのである。

 僕らは少なくとも5年先の新鮮な建物をデザインしなければならないのである。文化庁の若い委員はその辺の勘所を良くわきまえていたのかもしれない。

2009年5月7日木曜日

8-2.コラボレイション/断熱コンサルタント

断熱コンサルタント

 僕とK君は東京駅から出ているつくばセンター行きの高速バスに乗って、つくば市内まで行った。実はK君の実家はつくばにあり、父親は内科の開業医をしていた。狭い世界だから彼のはじめての施主となるS医師と面識があっても不思議はなさそうだったが、S医師は精神科の医師であるということもあって、K君の父親との繋がりはないということだった。親が知り合いであればK君の信用度は格段に違っていた筈だった。話しを聞くと、S医師はK君が独立したてでまだ結婚もしていない、という事を気にしていたらしいのである。昔は男にとって結婚とは社会的な信用だと聞いていたが、今でもそうした感覚が根強く残っていたことに、僕はちょっと驚いた。でも、施主にとってみれば、まだ経験も浅い独立したての独り者ではどこをどう信用していいものなのか、拠り所がない不安があるのだろう。会社に属している設計者なら、多少本人が頼りなくてもその会社の信用度が彼を守ってくれるだろう。しかし、そんなものがまるでなく、本人だけを見て、その人間が信頼できる相手かどうか判断できるほどの人格者などそういるものではない。

 僕らは、会議場の1階にテナントとして入っていたファミレスで待ち合わせていた。2階分吹き抜けたガラス張りの大きな箱のようなスペースに、アルミフレームの軽い感じの椅子とテーブルが配置されていた。僕とK君は、待ち合わせの時間より少し早かったので、喫煙席で一服してから窓際の禁煙コーナーに席を移した。そこに、サイクリング用の自転車に乗って眼鏡をかけた一人の中年男性がやって来た。S医師だった。

 僕らは立ち上がって挨拶を済ませると、早速、今後の進め方について話し合った。K君が設計監理者として契約すること。僕が、断熱についてのコンサルタント業務を行うこと。K君の設計監理料を工事費の9%とし、コンサルタント業務の報酬を1%とすること等、具体的な取り決めを行い、K君の設計に合わせて断熱の仕様や暖房についての提案を次回行う事となった。

 僕は話しながら、S医師とK君の仲人でもしているような感じがしていた。僕にしてみれば、S医師は自分の直接の施主ではなく、自分が第三者的な立場なので、遠慮なく自分の考えを述べることができた、というのが良かったのかもしれない。S医師はすぐに僕が付いていてくれれば安心だ、という気持ちになってくれた様だった。K君の設計料が1%分減ってしまったが、今まで渋られていた契約をすんなり受け入れてもらう事ができたのだから、K君にとってもその事の方が嬉しかったに違いない。兎に角、これで彼は自分の作品を作る事ができるのだ。僕らは画家や彫刻家の様にまず自分で作品をつくるということができない。自分の作品が作れる様になるにはまず人の信用を勝ち得なければならない。だからどうしてもそのスタートは遅くなってしまう。建築を長い間学んで来た者にとっては、やっと本当の意味でのスタート地点に立てた、という大きな意味があるのである。

 こうしてK君は自らの初仕事をコンペで勝ち取る事ができ、早速、本格的な設計に取りかかる事になった。そこでまず、僕は、建物の面積をコンペ案より一回り小さくすることを彼に進言した。

 コンペというのは設計条件として必ず予算が示されているものだが、そこを正直に守っていると他の案に見劣りするものになってしまう。だから、皆、予算の事はそっちのけで最良の案を考えるものである。予算の事はコンペを取ってからゆっくり考えれば良いのだ。それによってコンペ案とはまるで違うものになってしまってはマズいが、いずれにしろ、取れなければ何もならないのだから、まず、取る事だけを考えるのである。

 一回り小さくする、というのは勿論、明らかに予算オーバーしていると判断できるからであり、プランやカタチを変えずに面積を落とそうと思えば、まず、やらなければならないことである。そんなことから始まり、断熱の仕様を決めれば僕の役目はそれで良かった筈なのだが、結局、木造住宅の細々した納まりについて一通りK君に伝授しなければならなかった。だから、彼は随分徳をした筈だ。しかし、だからと言って僕が損をしたとは思っていない。自分が学び得た技術やノウハウを自分だけの武器にして墓場まで持ち込んで何になるだろう。若い設計者にどんどん伝授してさらにいいものにしてもらい、いい家が一軒でも多く建ってくれれば、その方が自分がこの世に生まれて来た意味があるというものだ。

2009年5月6日水曜日

8-1.コラボレイション/若い設計者とコンペ

若い設計者とコンペ

 インターネットが普及してくると、設計事務所を集めてビジネスを始めようとするサイトが次々と現れて来た。最初に登場したのが、ネット上で住宅のコンペを開催するサイトで、これから家を建てたいという一般客を募り、そこに我こそは、という設計者が何十人もコンペ案を応募するのである。施主はその中から一番良いと思った案を選ぶ訳だが、仕事に恵まれない若くて優秀な設計者にとっては、いかに競争率が激しくても数少ないチェンスであることには変わりないし、多くの案をただで見られるのだから、施主にとってもありがたいシステムだった。

 しかし、設計者がどれだけの労力と時間をかけて作成したのか知る由もない施主は、以外と「採用案なし」として、工務店に設計施工で頼んでしまうか、たちの悪い人なら最初からそのつもりでいい案を手に入れ、それを工務店に持ち込んでしまう事もしばしばある様だった。逆に、一番いい案だと喜んで若い設計者と契約したはいいが、殆ど住宅の設計の経験がなく、予算が全然合わなかったり、現場で問題を起こして大変な目に合う施主も出て来る。いい面もあれば問題点もある、まだ、そんなビジネスの創世記だった。

 僕がかつて勤めていた事務所の大先輩から電話をもらったのも丁度、そんな時期である。彼の知り合いの若い設計者がコンペでつくばの住宅の仕事を取ったのだけれど、施主は高断熱・高気密にしたいと言う。その若い設計者はまだ独立したばかりで木造住宅の経験もなく、ましてや高断熱・高気密については何も知らないので相談に乗ってやって欲しい、ということだった。

 僕はその話しを聞いて、ビックリした。丁度、その頃、僕の本を読んだ、という読者から相談を受けていたのだ。つくば市で医者をやっていて、ネットのコンペで自宅の設計者を選んだのだけれど、まだ木造住宅の経験のない、しかも、高断熱・高気密の知識もなさそうなので、どうしたものか、という問い合わせだったのだ。

「僕のところに、その施主から相談が入っていますよ。」
と言うと、今度はその大先輩が電話の向こうで驚いている様だった。

 それで、早速僕はその若い設計者に会わせてもらう事になり、その週末、大先輩のお宅を訪問した。大先輩は、何年か前に奥さんを亡くし、ひとり娘も嫁いだばかりだったので、家には彼ひとりで、お互いに久しぶりの再会でもあったので、他に二人、昔の仲間も呼んで酒盛りの準備が整っていた。

 そこで僕はK君を紹介された。当時、三十代半ば過ぎのK君は、薄いあご髭を生やし、ちょっと学者風の風貌をしていた。出身の明治大学で講師をしているということだったから、成る程、という感じだ。僕は挨拶もそこそこに、持参して来ていたつくばのお医者さんとのメールのコピーを彼に渡し、こちらがどんなやり取りをしていたか、とにかくまず読んでもらう事にした。彼が読み終えると,次に大先輩がそれを読み、ひと言こう言った。

「普通なら自分の仕事にしてしまうんじゃない?」

 つくばのお医者さんからメールをもらった時、僕はこう返していた。

「コンペの案を作成するというのは、皆、大変な労力と時間を掛けているのです。ですから、施主の立場としては、そのコンペ案の中から設計者を選ぶというのが礼儀だと思います。もし、選んだ案の設計者が高断熱・高気密に詳しくなく、その辺がご心配なら、僕が断熱についてだけコンサルタントとして付いても構いませんよ。でも、設計者にとっては、やはり目の上のたんこぶのような存在ですから嫌がられるかも知れません。ご確認してみては如何ですか?」

 そう、このコンサルについての提案に対し、設計者から「勿論構いません」という返事をもらった、というので、その時は、僕の方が意外に思っていたのだった。自分の持っていないものを素直に認めて、他者を受け入れることのできる人間、僕は、その時、「相当できる奴だな」と感じたのである。大抵は自分に自信がないから他者を受け入れられないのだ。それを受け入れられるのは、それだけ自分に自信のある人間なのだ。それがK君だった。

 僕は、自分自身何度もこうしたネットコンペに応募した経験を持っていたから、その苦労もよく分かっている。だから、施主にも礼儀を尽くしてもらいたいと思う。言われてみれば、確かにこうして転がり込んで来た施主を上手く自分の方へ引き寄せる事はできたかもしれない。でも、それは武士のする事ではない。
 僕らはその夜、結局、終電を逃し、朝までとりとめのない話しに花を咲かせることとなった。

2009年5月5日火曜日

7-5.家づくりを共に楽しむ/打ち合わせがなくなって寂しい


打ち合わせがなくなって寂しい

 住宅の設計において最終的に重要なのは、施主の予算内に納まる設計をしなければならない、ということである。しかし、現実にはそう上手くいくことは殆どない。施主の要求条件はその予算のおよそ1.5倍あると考えて良い。だから予算が絶対条件なら、施主の夢を摘み取ってゆかなければならないことも稀ではない。

 M夫妻の家の設計打ち合わせがあれほど盛り上がったのは、ひとえに予算のとこをそっちのけで進めてきたからに他ならない。もし、最終的に追加変更見積もりをして、大幅に予算をオーバーし、 Mさんがそれを全く許容できない様であれば、それまでずっと楽しんで来た思いが一気に落胆や怒りに変わることだってあるのだ。図面をまとめあげるための半年間に及んだ打ち合わせの終盤には、それこそお金の事が営業のY君にとっての一番の心配事だった。

 そして、案の定、その心配は的中し、当初契約した工事金額よりも三割近くもオーバーしてしまったのである。この事実をMさんにどう切り出したらいいものか、Y君は相当胃の痛い思いをしたに違いなかった。しかし、この問題を避けて通ることはできない。設計打ち合わせも最終段階に入ろうとしていた暮れも押し迫ったある日、Y君は沈痛な面持ちで打ち合わせの席に着き、追加見積書をMさんの前に差し出した。

「少しずつ追加分や変更分について金額をお出ししておけば良かったのですが、」
と言ってY君は口ごもってしまった。

 Mさんはその沈黙に気付きもせず、夫々の項目と追加金額を照らし合わせながら見積書のページを捲ってゆくと、

「僕らの希望を遥かに超える家にして頂いたのですから、当然このくらいはオーバーするだろうと思っていました。心配しなくて大丈夫ですよ。」と言って頭をもたげたままのY君に微笑みかけた。

 ハウスメーカーの仕事だから現場は現場担当者に任され、設計者は殆ど現場に足を運ぶ事は無い。勿論、僕も監理料など貰えるとは思っていなかったが、自分が設計したものに対しては責任がある。と言うよりは、愛着がある、と言った方が正しいかも知れない。愛着が持てないものを設計する、即ち、ただ単に仕事として設計をしている、というのでは設計者とは言えない。僕らは自分自身の手でものを作る訳ではないが、多くの人の手を借りて作り上げられるものは他の誰でもない設計者自身の頭の中から生まれてきたものなのだ。それが実際にどのように出来上がってゆくのか、そんな楽しい場面を見過ごす事なんてできない。

 M夫妻も現場を見に来るのが楽しみな様だった。基礎が打ち上がった頃までは現場を見ながら以外に小さな家だという印象を持っていたMさんだったが、上棟の時にはそのボリューム感を見て高揚する気持ちを抑え切れない様だった。家というのは地面に平面をなぞった段階ではやけに小さく感じるものである。それが、構造が組みたがった時、屋根が掛かった時、外壁で覆われた時、内壁ができた時、と言う様に家は小さく感じたり、大きく感じたりしながら順繰りと出来上がってゆく。

 この家は、先にも触れた様に、ハウスメーカーの家なので基本的にその仕様を守らなければならない。しかし、結局、守られた仕様は外断熱の仕様とSE構法という集成材を金物で留める構造だけだった。それ以外は総て仕様から外れている。

 僕が推薦し、最後までイメージを掴めないまま僕を信じて決定してくれた外壁材が取り付けられた時には、日が沈むまで僕もMさんも現場から離れる気になれず、じっと井桁の様に組まれた壁が刻々とその表情を変えてゆく様を見ていた。丸みのあるリブが付いた淡いグレーのアルミサイディングだが、太陽の角度や日差しの強さ、陰の部分でその色が何とも形容し難い美しさに変化してゆく。これは僕自身、予想できなかったことだが、Mさんにとっても忘れられない感動になった様だった。

 建物が竣工して、友人に製作を依頼していたリビングベッドを運び入れ、やっとMさんの新生活がスタートしたが、僕らの楽しみはまだそれで終わりではなかった。建物が美しくその場に存在するためには庭やアプローチ部分のデザインが不可欠である。

 外構工事は建築本体とは切り離されて別途工事となったが、僕は岩山の上にこの建物を据え置こうとイメージしていた。それに反応してMさんの奥さんがガーデンデザインの本ではなく、山の写真集を持ってきてくれたことがとても嬉しかった。

 岩の隙間に可憐な高山植物が生えているそんな写真を指差して、
「こんなイメージですよね?」と奥さんは僕のイメージを見事に理解してくれた。

 大きな岩は、溶岩の塊である。トラック一杯の溶岩石をユニックで下ろして、現場でひとつひとつ配置を確認しながら置いてゆく。植物もその隙間に植えてゆくが、根をつけ花を咲かせ、イメージが形になるには暖かい春を待たねばならない。

 しかし、こうして設計・監理を終え、冬場の早い日没の時刻にはもうほろ酔い加減になった僕とMさん、そして、当に任務を終えていたはずのY君の3人で、敷地のフェンスを乗り越え、夜陰のフェアウェイの中を駆け抜けると、その先の小高い丘の上に座り、闇の中に煌煌と輝くフェアウェイフロントの家を眺めた。家が完成した暁には、ぜひ一度ゴルフ場の中からこの家を眺めてみたい、というのが僕らのかねてからの夢だったのである。

 僕らは暫く何も言葉を発することなく、ただじっと生まれたばかりの新たな光景を眺めていた。すると、Mさんが呟く様に言った。
「もうあのワクワクする打ち合わせがないと思うと、ちょっと寂しいですね?」